第159回 伊澤直美(53)パンケーキ食べてる場合じゃない
《ここのパンケーキをどうしても直美さんに食べて欲しくて》
佐藤千佳子さんが待ち合わせに指定したのは住宅街の中にある「kirikabu」というカフェだった。
折り入ってご相談したいことがとメールを受け取ったのが週の始めだった。できるだけ早く時間を作って欲しい、今度の週末はどうですかと佐藤さんは前のめりだった。こんなに積極的な人だったっけと戸惑ったが、お店のインスタを見てみると、確かにパンケーキはおいしそうで、ついているコメントも好意的だった。
駅から7分と聞いていた道のりは、照りつける陽射しでそれ以上に感じられる。すでに10分は歩いている気がする。汗でシャツブラウスが背中に張りつく。
連れ立って出かける親子とすれ違う。手をつないでいる女の子は優亜と同い年ぐらいだろうか。優亜はイザオに見てもらっている。佐藤さんって、お子さんがいるのに、そういう気遣いはないんだなという不満がくすぶり、足取りを重くする。以前、優亜と出かけた電車の中で佐藤さんと遭遇した。中学生か高校生くらいの娘さんが一緒だった。あれくらい大きくなったら、子育ては遠い日のことなのかもしれない。
やっぱり断れば良かったか。だけど、佐藤さんには縁もあるし、恩もある。
商品開発室で行った消費者インタビューで意見を寄せてもらった。そのとき聞いた「パセリの花束」というワードを、直美自身が月刊ウーマンに取材されたときに話したところ、記者が気に入り、見出しに使われた。
試食イベントに来てくれたときは、娘さんのお下がりのワンピースをいただいた。生地も縫製もしっかりしていて、足し算になりがちな子ども服のうるささとは真逆のすっきりと引き算されたデザイン。オーダー品かもしれない。サイズは今の優亜にぴったりで、そのワンピースを着せて出かけると、行く先々でほめられる。
もしかしたら、またお下がりを分けてくれるのだろうか。今度は量が多いとか、状態があまり良くないとか。それで受け取りの意思を「相談」したいということだろうか。
坂を上がり切る手前に、店名のアルファベットを貼りつけた木の壁が現れた。店の前に立っている黒板にはチョークアートのパンケーキが描かれている。木のドアを開けた店内は、甘い匂いが立ちこめていた。
佐藤さんは先に着いていて、窓際のテーブルから「こちらです」と手を振った。こんなに明るい声をしてたっけ。
木のテーブルを挟んで向かい合うと、やはり佐藤さんの印象が違う。
何が違うのだろう。メイクが変わったわけでもないし、髪型も髪の色も変わっていない。
「今の季節のイチオシはシトラスのパンケーキです」
こちらを頼みますよねと決めてかかっている声のトーンだ。メニューを指差す爪が爽やかなミント色にネイルされている。これまで会ったときはネイルをしていただろうか。
インスタで写真を見て、おいしそうとは思ったが、これしかない、のように言われると、他のにしようかと迷ってしまう。「じゃあ、こちらで」と答える自分の声が煮え切らない。
なんだろう。佐藤さんのペースに乗せられるのが面白くないというか、居心地が悪いというか。
それに、レモンを見ると、母を思い出してしまう。玄関先のレモンの木がそろそろ白い花をつける頃だが、しばらく母に会いに行っていない。
佐藤さんがカウンターに「季節の、2つ」と注文を伝え、「はーい」と奥から返事があった。家の近くのカフェだとメールに書かれていた。今日の佐藤さんが別人のように堂々として見えるのは、ホームの安心感からだろうか。
「ここのパンケーキって、結構ハーブを使ってるんです」
佐藤さんは、共通の趣味のようにハーブを話題にする。「わたしたち、ハーブでつながっている者同士」の口調だ。ありがたいが、ちょっと重い。友だちの距離感になるにはまだ早い。
パンケーキを待つ間に佐藤さんは話を切り出すつもりだろう。何を相談されるのか、見当がつかない。
試食イベントの日の佐藤さんを思い出す。
同じテーブルになった参加者の中に学生時代のタヌキを知る人がいた。タヌキがミスキャンパスだったという言わなくて良い過去を披露したとき、テーブルがどよめいたが、佐藤さんはタヌキの大学名に反応した。
名前を聞けばキラリンと効果音がつきそうなブランド校ではあるが、卒業生はそこらじゅうにいる。佐藤さんは、おそらく地方出身で、大人になってから首都圏に出てきたのではないだろうか。
「田沼さんって、もっとキラキラしたとこに就職したと思ってた」と言われ、上手に受け流すことができないタヌキは動揺が顔に出てしまった。
「皆さん、本日の主役は豆!です!」
後輩のハラミ2号が咄嗟に場の空気を変えてくれ、注目の的はタヌキからテーブルの上に移ったが、佐藤さんは「すごいですね」とタヌキの学歴にまだ感心していた。どことなく母や義母のにおいを感じたが、娘さんが高校生だとしたら、進路の話題に敏感なのかもしれない。
もしかして、タヌキのことを聞かれるのだろうか。どうやってあの大学に入れたのか、勉強法を知りたいとか。さすがにそんな回りくどいことはしないか。
豆よりもタヌキが注目を集めてしまったあの日の試食イベント。参加者には「どんどん写真を撮ってSNSに上げてくださいね」と呼びかけたのだが、悲しいほど、誰もつぶやいてくれなかった。佐藤さんと一緒に参加されていた白杖をついたYouTuberのカズサさんが動画を上げてくれるのではと期待したが、今のところ、上がっていない。
参加者アンケートの反応も薄かった。イベント直後にも関わらず、「今後、ハーブと豆の組み合わせを家庭で取り入れていきたいか」という質問への回答は、5段階の4にあたる「ややそう思う」が多数で、5にあたる「とてもそう思う」は数人だった。
レトルトパックの豆を購入する客は、手軽さ、便利さを求めている。一方、ハーブは敷居が高く、購買層が違うのかもしれない。自宅でハーブを育てている直美とタヌキは、キッチンから数メートル歩けば、新鮮なハーブが手に入るが、ハーブとの距離を感じている人のほうが多数派だろう。
ハーブと豆をセットで推すと、商品の間口をかえって狭めてしまう恐れがある。「売りたいのはハーブではなく豆ですよね」とハラミ2号が冷静な意見を出し、日持ちのする乾燥ハーブで味変するほうが取り入れやすいのではと落ち着いたのが昨日金曜のミーティングだった。生ハーブと豆の組み合わせに可能性を感じている直美とタヌキは、商品開発室のメンバーを説得できるアイデアを週末に考えようと持ち帰った。
パンケーキを食べてる場合じゃない。
「マルシェをやることになったんです」
いきなり佐藤さんが切り出した。ハーブをテーマにした店頭イベントをやることになったので、アイタス食品さんも一緒にやりませんかと言う。
佐藤さんがパートで勤めているスーパーマルフルはアイタス食品の取引先だが、パートがイベントの企画もするのだろうか。
仕事の相談をされるとは思っておらず、直美があっけに取られていると、「ハーブをいただきながら、この話をしたかったんです!」と佐藤さんは声を弾ませ、テーブルに資料を出した。イベント名だろうか。ハーブをあしらった「マルフルマルシェ」のロゴができている。ロゴのミント色とネイルの色が合っている。合わせたのだろう。
そうかと気づいた。佐藤さんのメイクは変わっていないが、真っ赤な口紅がなじんでいる。見慣れてきたせいかと思ったが、顔つきが赤に負けていない。口紅の主張に自信が追いついたのだ。
パンケーキを食べてる場合じゃない。
じゃないのかもしれない。
次回6月30日に伊澤直美(54)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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