第145回 佐藤千佳子(49)みんな春を待っている
逢い引きの夢を破ったのは、やはり野間さんのスマホの誤操作だった。スマホがリュックの中に入っていて、指摘されるまで気づかなかったとメッセンジャーのテキストメッセージで謝られた。
《佐藤さんとダンナさんを起こしちゃってごめんね。でも不思議。直近で佐藤さんに連絡してたわけでもないのに、なんでかかっちゃったんだろね》
メッセンジャーでのやりとりはいつも文字で、通話はしたことがなかった。スマホを鳴らしてしまったのは、声が聞きたかったのかもしれない。
野間さんがアムステルダムに経ったのは5月だ。お互いの声を半年あまりも聞いていない。
通話ボタンを押せば今すぐつながるのに、「明日の日本時間夕方5時に」と待ち合わせの約束をして、出直すことにした。
エアメールは往復で最短でも1週間余りかかるのに、通話だと時差がない。即座に声が聞けて、相槌や笑いが返ってくる。野間さんはどうだかわからないが、千佳子はそのスピード感に気後れしてしまう。アムステルダムまでの距離感がおかしくなる気がするのだ。だから、あえて時差を作ることにした。
待ち合わせの時間になると、テーブルに置いたスマホを見つめ、鳴り出すのを待った。
5時を少し過ぎ、まだかなと手に取った瞬間にスマホが鳴り、発信者の名前を確かめる前に「野間さん?」と出ると、「はやっ」と驚かれた。
「声、近いですね」と言うと、
「初めて国際電話した人みたい」と笑われた。
「たぶん初めて、です」と千佳子は答え、初めてだったよねと記憶と答え合わせをする。うん。やっぱり初めてだ。
「じゃあ記念すべき第一号だね」
野間さんが笑うと、声が少し大きくなった。声が近くて、はっきりしていて、間にいくつもの町や国を飛び越えているように思えない。
「野間さんは、何かにつけて第一号です」
「夜中に間違ってスマホ鳴らしちゃったのも第一号?」
「そうですよー。でも、楽しかったです。アムステルダムの音を実況してもらえて」
夫とベッドの中で耳を澄ませたあの夜を思い出す。
「けっこう鳥が鳴いてましたよね。森の中にいるのかなって思いました」
「アヒルとか、散歩の犬とか、色々鳴いてる。フェンデルパークっていうアムスのど真ん中にある代々木公園みたいなところ。そこを自転車で突っ切ってた」
公園を自転車で。それで車の音がしなかったのか。
「朝からサイクリングしてたんですか?」
「ううん夕方。仕事終えて帰るとこだった。公園の北に職場があって、南に自宅があるから、公園突っ切るのが近道なの」
鳥の声から朝だと思っていたが、夕方だったらしい。
「夕方に帰れるんですね?」
「朝が早い代わりに終わりも早いの」
野間さんが仕事を始めたことは手紙に書いてあった。就労ビザに切り替えるために夏に一時帰国していたのだが、そのときはタイミングが合わず、会えなかった。昔働いていた外資系広告代理店のアムステルダム支社で働いているらしい。
「すごいですよね。広告代理店に現地採用されるなんて」
「すごくないよ。日本語もできる事務員みたいな感じ。日本法人のクライアントもいくつか持ってるから日本語できるスタッフが欲しいって支社長に声かけられて」
「支社長と知り合いなのがすごいですよ」
「30年ぐらい前にカンヌで親しくなって」
「カンヌって映画祭ですか?」
「あのカンヌの同じ場所で広告のお祭りもやってるの。そこに世界中から広告関係者が集まるんだけど、うちの会社のワールドワイドのパーティもあって」
ワールドワイド。普段なかなか聞かない単語だ。
「言葉は大丈夫なんですか? オランダってオランダ語ですよね?」
「うん。でも、みんな英語できるから」
その「みんな」の中に野間さんも含まれている。英語ができることは、野間さんにとっては普通のことなのだ。やはり「すごいですね」としか言えない。
「オランダ語も聞き取りはまだまだだけど、読み書きはだいぶできるようになったよ。カレとのやりとりはオランダ語オンリーだし」
カレ?
漢字に変換すると同時に、「彼!」と千佳子の声が大きくなった。
「聞いてないです!」
「出会ったばっかりだから」
「職場恋愛ですか? もしかして、さっきの支社長の人?」
「じゃないけど、彼女に教えてもらったの。こういうマッチングアプリがあるよって」
支社長は野間さんより歳下の女性だという。元からの知り合いとはいえ、どういう流れで支社長とマッチングアプリの話になったのだろう。
そういう会社なのか、そういう国なのか、そういう野間さんなのか。
「で、コンサートに一緒に行く相手が見つかったらな、ぐらいの気持ちで登録したの。ほら、こっちって行動単位がカップルだから」
そしたら出会ってしまったのと野間さんの声が若やいだ。
相手は大学教授で、別れた妻とは肌の色も髪の色も違う東洋人を選んだのだと言う。
「彼も私のダンナとは何もかも違うの。瞳はグリーンだし、身長は20センチぐらい違うし」
野間さんの亡くなったダンナさんの身長を知らないが、165センチでも20センチ足したら185センチになる。あちらの国では珍しい大きさではないのだろうか。
「まだ数えるほどしかデートしていない」と野間さんが言い、もう何度もデートしているのかと千佳子は思う。
デート。
私的日常用語辞典があるとしたら、千佳子の辞書からはとっくに外れている単語だ。もう用はありませんね。関係ありませんね。代わりに収録されたのは子育てや学校や節約や節税にまつわる用語で、間もなく介護用語が加わるのだろう。
「どんなデートをするんですか?」
「こないだの土曜日はチューリップ配ってるって聞いて、ふたりで並びに行ったんだけど、寒くて凍えそうで」
凍えそうと言う声が全然寒そうじゃない。冬なのに生足を出してはしゃいでいる若い子みたいだ。
「前にひまわり配ってませんでしたっけ?」
「そうそう。今度はチューリップ。ひとり20本で20万本だったかな」
「さすがチューリップの国ですね。チューリップって春のイメージでしたけど、1月から咲くんですね」
「みんな春が待てないんだよね」
野間さんがまた「みんな」と言った。
みんな春が待てない。
チューリップも、野間さんも、野間さんの恋人も。
わたしは? 「みんな」の中に入ってる?
野間さんと同じ職場にいたとき、小さな輪をふたりで少しずつ広げながら機嫌よくやっていた。輪の中心には自分たちがいて、ささやかな達成感をふたりで分け合った。
アムステルダムに行ってからの野間さんは向こうで新しい輪を作って、その輪を広げている。
英語を話す人たち。
いい歳になっても恋をする人たち。
春が待てない人たち。
野間さんの輪が大きくなると、日本にいる自分はどんどん追いやられていく気がする。隅のほうへ、後ろのほうへ。
話せば話すほどアムステルダムの野間さんが遠く感じられた。通話の声は距離を忘れてしまいそうなほどクリアなのに。
次回2月3日に佐藤千佳子(50)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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