第176回 佐藤千佳子(60)スカーフをふわりと広げて
「本読み隊の活動が止まったままなんです」とサツキさんが言った。
「いつからですか?」
「一斉休校からです」
文香が6年生だった2020年の3月からだと千佳子は記憶を巻き戻す。最後の活動日に向けて旅立ちや春にちなんだ本を6年生の親メンバーで選んでいたが、一斉休校で出番がなくなり、6年間の活動の終止符を打ち損ねたまま卒業してしまった。
休校が明けてしばらくは本読み隊の活動を見合わせていると在校生メンバーの誰かから聞いたが、まさか、いまだに活動してなかったとは。月に一度の読み聞かせは、学校行事として組み込まれているものだと思っていたが、あくまでボランティア活動なのだ。
「中心になっていた高学年の親メンバーが卒業で抜けてしまって、低学年は勧誘が止まっていて、人がいないんです。一旦止めたものをもう一度動かすのってエネルギーが要るんですよね。時間が経つほど活動を知っている人も減ってしまって。このままだと本読み隊がなくなってしまいます」
大変なことになっているのだが、サツキさんの優しい語り口は絵本の読み聞かせをしているようで、動物たちが通う森の学校の話のようなのどかさがある。
「そうなんですね」と千佳子はうなずく。気のきいたことを言いたいが、気の抜けたことしか言えない。
サツキさんはこんな話をわたしにして、どうしようというのだろう。小学校をとっくに離れた親ふたりで何ができるというのだろう。
「それで、お節介なんですけど、私、人を集めたんです」
「え?」
サツキさん、今、さらっとすごいことを言った。
「同じ学年でメンバーだった人に声をかけて、そこから休校前に本読み隊メンバーだった方で下のお子さんが今年入学された人につないでもらって、学校にもかけ合って、まずは一回やってみましょうってなったんです」
「そこまで進んでるんですか?」
千佳子は呆気に取られてしまう。ハーブマルシェ計画は棚上げになったままなのに、サツキさんは4年余りも止まっていた本読み隊を再開にこぎつけた。グイグイと道を切り拓くタイプではないのに、どんな魔法を使ったのだろう。
「それで今週の金曜なんですけど、佐藤さん来れます?」
急に話を振られて、「へ?」と声が裏返った。
「読み手が決まっていないクラスがあと1クラスあって。1年生なんですけど」
返事をする前に千佳子は読み手にカウントされている。急だなと戸惑いつつ、自分の場所が用意されていたようでうれしくもある。
「行けます。金曜日、シフトが10時からなので」
「良かった。揃いましたっ」
サツキさんが目を細めて小さく拍手した。
千佳子はサツキさんのコートの襟元からのぞく水玉のスカーフに目をやる。やわらかくてしなやかで肌触りが良さそうだ。サツキさんは、スカーフみたいな人だと思う。ふわりと広げたスカーフの中にいつの間にか包み込まれていた。
「実は、佐藤さんじゃなくても声をかけるつもりだったんです」
「どういうことですか?」
「いいお声だな、読み聞かせ上手そうだなと思っていたんです。レジで並んでるとき」
「そうだったんですか?」
「そしたら本読み隊で一緒だった人で。きっと本が引き合わせてくれたんですね」
サツキさんはそう言って、「だって、ここのマルフルで買い物するの初めてなんです。図書館の帰りで」と続けた。
当日の朝、千佳子は1年2組の教室に向かった。最初のチャイムが鳴ってから次のチャイムが鳴るまでの15分の中で何を読むかはメンバーに任されている。文香が2年生の頃に気に入っていた絵本を3冊選んで持って行ったが、読めたのは1冊だけだった。
登校した子どもたちが話を聞ける状態になるまでに10分近くかかった。本読み隊の活動が止まった後に入学した学年の子で、担任の先生も勝手がわからない。机を詰めて教室の後ろにスペースを作り、床に座って聞くというスタイルも千佳子が説明しなくてはならなかった。
教室での読み聞かせの後、時間のある読み手は図書室に集まることになっていた。
6学年15クラスに1人ずつ読み手を送り込んだが、図書室まで残ったのは3分の1の5人だった。
卒業生の親メンバーはサツキさんと千佳子、在校生の親メンバーは顔を見たことはあるけれど名前は知らない3人。一人はスーツ姿、一人は部屋着のようなスウェットの上下、ダッフルコートを着たままのもう一人は幼稚園バッグを斜めがけした女の子を連れていた。
長机を2つくっつけ、卒業生メンバーと在校生メンバーで向かい合った。棚の前に座って図書館の絵本を読んでいる。
「皆さんのおかげで本読み隊を再開することができました。私たちのずっと先輩が始めて、バトンを渡してつないできたこの活動は、子どもたちにとっても学校にとっても宝だと思うんです。特に、家に絵本がない子たちにとっては、月に一度の本読み隊は、絵本との貴重な接点です。年に数十冊、6年間で百冊以上の絵本と出会えます。その機会が失われてしまうのは本当にもったいなくて、お節介だと思いつつ出しゃばってしまいました。それで、来月からのことなんですが」
「え? 今月だけじゃないんですか?」
サツキさんの長めの挨拶を遮ったのは、スーツさんだった。残業を言いつけられた気の強い部下みたいな言い方だ。眉を切り揃え、まつ毛を上げ、清潔感のあるメイク。革の四角いリュック。これから出社だろうか。
「そこもどうするか、ご相談したくて。できれば、以前のように毎月できるといいなと思うんですが」とサツキさんが遠慮がちに言うと、
「でも、受験ですよね?」とダッフルコートさんがスマホから顔を上げて言った。
「受験?」とサツキさんが繰り返し、「あ、そっか」とつぶやく。
文香の頃も中学受験する子がクラスの半分を超えていて、年明けは教室がそわそわしていたのを千佳子は思い出す。だが、受験があるから本読み隊の活動を控えるということはなかった気がする。
「子どももですけど、親も落ち着かないですよね?」とダッフルコートさんが言った。
「他の学年だけにするか、来年度からでもいいんじゃないでしょうか」
スーツさんはそう言うと、リュックをつかんで、「すみません」と席を立った。
「ごめんなさい。うちも」
ダッフルコートさんも立ち上がり、絵本を読んでいる女の子に「行くよ」と声をかけた。登園の時間らしい。
「お時間作ってくださってありがとうございます。また連絡させてください」
サツキさんは「ごめんなさい」と言わないように努めているらしく、お礼の言葉でスーツさんとダッフルコートさん親子を見送った。相変わらず感じの良い笑顔を浮かべているが、無理しているのではないかと千佳子は心配になる。せっかく再開にこぎつけたと思ったのに、ふわりと広げたスカーフがシュンとしぼんでしまった。
隙間が目立つ本棚を見て、さっきまでは「たくさん借りられているんだな」と前向きなことを思ったのだが、今見ると、整理が追いついてないだけではないかと思えてくる。
残ったのはスウェットさんだけになった。
「これって役にカウントされます?」と質問された。
「役って?」とサツキさんが聞き返す。
「PTAの役のことですか?」と千佳子が横から聞くと、
「カウントされます?」とスウェットさんは千佳子に聞いた。
毎年、新学期の始めの保護者会で役決めをする。PTAの役員から空き缶のリサイクル係まで「一人一役」を合言葉に何かの役を担当することになる。その一役にカウントされるかどうかを聞いているのだった。
「PTA活動とは別な有志の活動……ですよね?」と千佳子がサツキさんを見ると、
「それ、いい考えですね」
サツキさんがポンと手を叩いた。
スカーフはしぼんでいなかった。
次回1月11日に伊澤直美(59)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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