第194回 佐藤千佳子(66)パセリ進化せり
休日の朝。夫はまだ起きてこない。
文香と庭の水やりをする。サッシ戸から手を伸ばせる庭先でパセリを育てている。直射日光が当たらない半日陰がいいらしいと聞いて、そこに植えたら、こぼれ種が芽を出し、次の年も同じ場所で育ち、それが繰り返されている。
「ママの進化ってパセリで語れるよね?」
「そう?」
と聞き返しつつ、そうかもと千佳子は思う。
あれは文香の13歳の誕生日を家族で祝った日だった。
「ママは何になりたいの? ママって、やりたいことないの?」
文香にそう聞かれ、千佳子は答えられなかった。答えを持っていなかったのだ。「東京に出たい」という願いは結婚によって叶えられ、次にできた「母になりたい」という願いも叶えられ、それ以上望むことはなくなっていた。だが、最後の願いを叶えた娘本人に思いがけず、「その先」を問われた。それが答えの出ない宿題となって、頭の片隅に居座った。
《わたしからママを引いたら、何が残るんだろう》
ママ友と呼ぶのも気後れするような幼稚園時代のママたちとのランチ会で、子育て以外の時間を楽しむママたちの近況が生き生きと頭の上で交わされるのを聞きながら、千佳子はサンドイッチの入っていたランチボックスの隅に取り残されたパセリを見ていた。いてもいなくても変わらない隅っこのパセリに自分を重ねた。
《このままじゃいけない。でも、何をすればいいんだろう》
輪郭のはっきりしない焦りともどかしさから抜け出すきっかけをくれたのも、またパセリだった。
スーパーマルフルのパートで出会った野間さんと始めた「パセリの花束」。パセリの根元にリボンを巻く、ただそれだけの思いつきが、そこそこ当たった。ちょっとした心遣いで売り場が華やかになること、パートの仕事もやり方次第で工夫の余地があることを教えられた。
仕事の面白さに目覚めた。アイタス食品の消費者インタビューを受けたとき、「パセリの花束」の話をしたら、後にその担当者の女性が「月刊ウーマン」という雑誌に取材されたとき、千佳子の話をしていた。
《パセリを花束みたいに活けている話をすごく楽しそうにされた方がいたんです。花束は主役、パセリは脇役ってイメージがありますが、パセリが主役になるんだって新鮮な驚きがありました。私たちが手がけるお惣菜シリーズは、副菜と呼ばれるものが多いんですが、もしかしたら、盛りつけ方や使い方で主役になることもあるのかもしれません。毎日を楽しく彩るのは、なんでもないことに光を当てる想像力なんだと教えられました》
学級通信にさえ取り上げられた記憶のない隅っこのパセリにスポットライトが当たった。
7月の千佳子の誕生日、夫と文香から贈られた花束には、パセリが混ざっていた。
パセリは夫が勤めている研究室で育てているもので、それを市販の花と合わせて組み直したものだった。月刊ウーマンの記事を見たからではなく、千佳子が以前パセリを水挿しにして観葉植物のように飾っているのを見て、思いついたのだという。
花束のパセリは誇らしそうだった。千佳子も誇らしくなった。パセリと自分を重ねていた千佳子にとって、パセリを肯定されることは、自分自身が肯定されることだった。
《わたしからママを引いたら、何が残るんだろう》
残ったのは、「わたし」だった。
自分は祝ってもらったのに、千佳子はその年、文香の14歳の誕生日を忘れていた。
元々、同時に二つのことをこなすのが苦手で、洗濯を干し忘れたり、オーブンレンジに入れたグリル料理を取り出し忘れたり、何にかまけていると、他のことがトコロテンのように押し出されてしまう。
ちょうどパセリをクリスマスツリーに見立てて売り出すことを野間さんと思いつき、その作戦が売れ行きに結びつき、せっせと赤いリボンを巻いていた頃だった。家に帰っても、「今日も売り上げ記録更新!」などとパセリの話ばかりしていた。
「ほらー。出たよパセリ部」
呆れ顔でからかう文香が、いつもの年なら「誕生日どうする?」と聞いてくるのになと思っていたことには気づいていなかった。結局、文香は夫の両親宅でケーキを食べ、お土産に蝋梅の花を持ち帰った。
「パートの時間減らしたりしなくていいからね。ママが楽しそうにやってるのは歓迎なんだから。1年前はママってやりたいことないのかなって心配してたけど、ママ、変わったよねー。この1年で娘より成長してない?」
そう言う文香も、1年前より大人びていた。
あれが、文香が中学2年生のときの冬だった。今、文香は高校3年生。ついこないだ高校入試を終えたばかりだと思っていたのに、もう大学入試が迫っている。
「あっという間に大きくなるね」
千佳子は文香を見て言ったつもりだったが、
「4周年だよね」
文香はペットボトルで水をやっている庭のパセリを見ている。
庭に植えたのは、誕生日に贈られた花束のパセリだった。水挿しにしたら根が出たので土に植えたところ、根づいてくれた。こぼれた種が芽を出すようになり、4度目の夏を迎える。
「やっぱりパセリってママっぽい」
「なんで?」
「人が見てないところで、いつの間にか、ちゃっかり種をこぼして、次につなげてる」
「それって、ほめてるの?」
「ほめてるつもりだけど」
文香はそう言って、「パセリ、進化せり」と格言のようなことを言った。
地植えは栄養が行き渡るのか、パセリはシャンと茎を伸ばし、青々としている。ランチボックスの隅でいじけている彩りのパセリとは大違いだ。
「ふーちゃんも進化してる?」
「何が?」
「聞いてみただけ」
「成績のこと?」
確かに、成績が上がるのも進化か。
「私は現状維持なんだよ。周りが追い上げてるだけ」
高校3年生になって皆が本気を出し始めた途端、文香の成績は相対的に下がっているらしいのだが、話しぶりに悲壮感はない。高校入試のとき、実力より少し背伸びした学校に入れたので、真ん中辺りにいられるだけで上出来だと思っていたが、今は真ん中より下に降りてきているという。
「ふーちゃんが行きたいところに届けばいいんじゃないの?」
受験のことは千佳子はまったくわからないから、そう言うしかない。
「まあ、そうだよね」
文香は淡々としている。本心は焦っているけれど余裕があるふりをしているというわけでもないらしい。人は人、自分は自分。人と自分を比べて引き算しない。
「ふーちゃん、行きたいところ、決まったの?」
そろそろ志望校を決める頃だ。いや、とっくに決めている頃だろうか。1学期の終わりまでに学校に提出する書類がどうたらと言っていた気がする。
「この家から通えないところがいい」
「どういうこと?」
大学名ではなく立地の話になり、突然のことに千佳子は声が裏返る。
「ふーちゃん、この家を出たいの?」
「一人暮らし、したいなって」
「一人暮らしするために、地方の大学に行くの?」
家を出たくて、東京の人と結婚したかつての自分が重なる。
「東京の大学だって、往復で3時間かかるとこ、あるじゃない?」
言われてみれば、確かにそうだ。横浜のこの家から通える大学に進むのだとばかり思っていたが、その中に文香が行きたい大学、学びたい学部があるとは限らない。来年の春になったら、文香と離れ離れになってしまうかもしれない。生まれたときから一緒にいたのに。
《この家から文香を引いたら、何が残るんだろう》
次回7月19日に伊澤直美(65)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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