第179回 多賀麻希(59)ドレスが目覚めるとき
「シュークリーム食べる?」
モリゾウのその言葉を久しぶりに聞いた。
麻希にとって、シュークリームがごほうびの単位だった。シュークリームで幸せを数えながら大きくなった。その話を聞いたモリゾウが、何かいいことがあるとシュークリームで祝ってくれるようになった。
「なんかいいことあったの?」
モリゾウは返事をせず、ブルゾンを羽織りながら玄関へ向かい、スニーカーに足を突っ込む。これから買いに行こうというのか。麻希はあわててコートをつかみ、シュークリームへ移動を始めているモリゾウを追いかける。
横浜市営地下鉄から東急田園都市線の渋谷方面行きに乗り換える。荻窪へ行くルートだ。
もしかして、荻窪まで買いに行くのだろうか。
前に住んでいたアパートから歩いて行ける住宅街の中のパティスリー。そのお店で初めてシュークリームを買ったのは、ひまわりバッグが6万円で売れた日だった。以来、特別な日のシュークリームは、コンビニやスーパーではなく、生ケーキと一緒にケースに並んで澄ましている個包装されていないシュークリームを奮発するようになった。紙の箱に入れてもらって持ち帰る道のりも、お祝いを分かち合うごほうびの時間になった。
今の横浜の家、アムステルダムにいる野間さんの留守宅に引っ越してからは、シュークリームを買いに行くことはなくなった。荻窪は遠いし、近所でシュークリームがおいしい店にまだ出会えていない。
荻窪のパティスリーまでは1時間半ほどかかる。往復で3時間。そこまでして祝いたいことがあるのか、モリゾウは。
麻希はシュークリームと縁遠い日々を送っている。
年が明ける前、カズサさんに会って、預かっていた子ども服を返した。
ずっとためらっていたハサミを入れようとした矢先、見計らったようなタイミングでカズサさんから電話があり、「謝らなくてはならないことがあるんです」と切り出された。
「バッグを作り始めてしまっていると思うんですが、もしまだ手をつけられていない服があったら、取っておいてもらえませんか?」
幼い頃の写真を久しぶりに見た娘さんに「この服、今どこにあるの?」と聞かれ、あわてて連絡を寄越したということだった。
「実はまだ取りかかれていなくて」
そう伝えると、電話の向こうでカズサさんは安堵のため息をついた。
ほっとしたのは麻希のほうだ。ブレーキをかけていたのは自分の事情だが、これで良かったのだ。遠慮なくハサミを入れていたら、カズサさんの娘さんをがっかりさせてしまうところだった。
「お預かりした状態のままお返しできますが、エコバッグはどうしましょう?」
「それも謝らなくてはならなくて。たまたまなんですけど、ポケットがついていて折り畳めるエコバッグをいただいてしまったんです」
カズサさんは申し訳なさそうに言ったが、麻希にとっては幸運な偶然が重なった。こんなことってあるのかと驚きつつ、新宿三丁目のマスターが言っていた「テンペイ」を思い出した。
待ち合わせたパンケーキの店で「これくらいはさせてください」とカズサさんに押し切られ、ブルーベリーのパンケーキをごちそうになった。
「ほんと、マキマキさんに申し訳なくて。お願いしたり、取り下げたり、ご迷惑をおかけしてしまってすみません」
「迷惑だなんて。でも、良かったです。もうしばらくお手元に置いといてくださいってことですね」
救われたとほっとする一方で、梯子を外されたような淋しさもあった。面白い作品にできる自信があったから。
でも、それはカズサさんではなく自分にとっての面白い作品だった。頼まれたのはエコバッグだったのに、頼まれていないドレスを作ろうとしていた。依頼主から預かった思い出の品を素材として扱おうとしていた。作家の身勝手、傲慢。
これで良かったのだ。ブレーキをかけてもらえて。
頭の中でドレスに生まれ変わった子ども服たちが手を離れ、パッチワークのドレスのイメージが宙ぶらりんに取り残された。
年を越し、1月が終わったが、麻希の手は止まったままだ。
しばらく布を触っていない。このまま何も作れないかもしれない。作ったところで誰も待っていないかもしれない。気持ちがかじかんでしまうのは、季節のせいだろうか。
2年前の今頃もそうだった。服飾専門学校時代の同級生だったケイティにひまわりバッグのデザインを盗まれ、開き直られ、何を信じていいのかわからなくなり、縮こまっていた。何かしなくてはと思うのに、体に力が入らない。自分のどこかに穴が空いて、空気が抜け続けているようだった。
家から出るのも億劫になっていた麻希の代わりに新宿三丁目のカフェのバイトに行っていたモリゾウに荻窪駅まで出て来れないかと呼び出され、駅で落ち合ったとき、「シュークリーム買いに行く?」とモリゾウが言った。
「なんもお祝いすることないのに?」
シュークリームからいちばん遠いところにいた麻希が言うと、「ケイティが盗みたくなるようなデザインを生んだ」とモリゾウは言い、そのおめでたさに麻希が呆れると、モリゾウは言った。
「呪うより祝うほうがめでたいから」
それからパティスリーへ向かう道で昔語りを始めた。
戯曲を書いて演出した舞台をテレビドラマに盗用されたことがあった。よく似ているが、まったく同じではなく、偶然だと言い逃れできる似具合だったが、プロデューサーは舞台を見に来ていた。
舞台とドラマの両方を観た誰かが「似ている」と指摘してくれないかと期待したが、そんな声は上がらず、舞台を再演すると、ドラマを盗んだと言われた。名もない演劇人の声は誰にも届かなかった。
失意のモリゾウが立ち寄った新宿三丁目のカフェでマスターに言われたのが「呪うより祝うほうがめでたい」だった。
「タダでも、いらんもんは、いらん。盗んででも手に入れたいもんをあんたがこしらえた、いうことや」
その場しのぎの気休めのような言葉が、そのときのモリゾウには薬になった。薬は、時を経て、モリゾウから麻希に伝えられた。
「マキマキ、前から言ってたよね? ドレス作るって」
モリゾウに話しかけられ、麻希は我に返る。渋谷へ向かう田園都市線の座席にモリゾウと並んで揺られている。
「言ってた」
クローバーの刺繍で上書きしたウェディングドレスをまとった花嫁をモリゾウと見に行った日。居合わせた花嫁の母も加わって、3人で見届けた。
ポーチよりバッグより、作りたいのはドレスだと込み上げた衝動とともに頭に浮かんだのは、ひまわりのドレスだった。一着で一輪のひまわりを描くようなそのドレスでひまわりバッグを上書きしようと思った。
2年前の6月だった。あれから1年半余り。まだ花びらの一枚もできていない。頭に咲いたひまわりのドレスの上に日常のあれこれが重なり、地層の下のほうへ追いやられ、ふとした瞬間に掘り起こされては、そっとしまい直している。課題図書を読み終えたものの書き出しの一行が思い浮かばなくて前に進めない宿題の読書感想文みたいに。
今またモリゾウの言葉でひまわりドレスが引っ張り出された。
思い出すたびに色は淡くなり、輪郭は甘くなり、あの日の鮮やかさが遠のいているのだが、これまでと違うのは、薄くなったラインがくっきりと引き直されていることだ。
花びらの一枚一枚が際立ち、それぞれの色を主張している。
パッチワークになっているのだ。
服飾専門学校時代から買い集めてきた、ヨーロッパの蚤の市で買いつけたという刺繍入りの布やデッドストックのプリント布。何度引っ越しても手放さなかった、いつか形にされることを待ち続けている布たちが花びらを担い、ひまわりを咲かせている。
今までのわたしを見てきた同志のような布たちで、ひまわりバッグを上書きする。
そうか。この答えを探してたのか。そのための回り道だったのか。
ふふっと小さな笑い声がこぼれて、「ん?」と顔を覗き込んだモリゾウと目が合った。身長差があるので、座席に座っていても見下ろされる格好になる。
「ん」と斜め上のモリゾウに向かってうなずいた。
わたしも見つかったよ。シュークリームを食べる理由。
次回2月8日に多賀麻希(60)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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