第180回 多賀麻希(60)クリームのないシュークリーム
渋谷で電車を降りた。荻窪のパティスリーへシュークリームを買いに行くのなら山手線で新宿に向かい、JRに乗り換える。それがいつものルートだ。だが、モリゾウの足が向かったのは、副都心線だった。新宿三丁目まで行って丸ノ内線に乗り換えても荻窪に行けるのだが、
「もしかして、店でシュークリーム食べるってこと?」
見失いようのない背中を追いかけながら麻希は聞いた。店というのは、モリゾウから麻希がバイトを引き継いだ新宿三丁目のカフェのことだ。
モリゾウは答えないが、口元が緩んでいる。楽しい企みをしているときの顔だ。
マスターが店でシュークリームを出すようになったのだろうか。
「最近、マスターと話したの?」
モリゾウの隣に追いついて、聞いた。やはり答えはないが、口角がさっきより上がっている。
最後にマスターと会ったのは、いつだっけと麻希は記憶を辿る。
店でしかマスターに会ったことがないから、最後に店に行った日ということになる。
横浜に引っ越してから、しばらくはバイトを続けていたが、行くたびに「遠いな」と感じていた。荻窪からは丸ノ内線に乗りっぱなしで本を読んでいたら新宿三丁目に着いた。横浜の家からは2回乗り換えて、1時間近くかかる。本も落ち着いて読めないし、人が多い駅での乗り換えも気を遣う。実際の移動時間より体感時間は長い。
「ここんとこヒマやし、マキマキ休みたかったら休んでええで」
マスターがそう言ったのは、通勤が負担になっているのを察したからだった。店がヒマなのはいつものことで、客が来なくてマスターとしゃべっているだけという日も珍しくなかった。
マスターは麻希にどうして欲しいと希望を伝えるのではなく、麻希がどうしたいかを汲み取ってくれる。
バイトを始めたときからそうだった。
「バイトせえへん?」と声をかけてくれたのは、再就職活動に怖気づいていた麻希に東京に残る理由と当面の生活費を差し出すためだった。バイトをしながら仕事探しを続けるつもりだったが、結局、新しい履歴書は一枚も書かなかった。
今さら新しい職場で挨拶から始めるのも億劫だった。40歳の新入り派遣社員なんて、中途半端で何かと微妙で使い辛いだろう。家賃と光熱費と食費をバイト代でまかなうのは難しく、なけなしの貯金も切り崩していた。
野間さんの留守宅に住ませてもらって、家賃がかからなくなったのは大きい。マスターに甘えなくても、やっていける。
「そろそろ」と促す気持ちがマスターにもあったのかもしれない。新宿三丁目に通う時間があったら、新作を作って、休止しているmakimaki morizoを再開させてはどうかと。
週5日入っていたのを少しずつ減らし、週1になり、月1になり、フェードアウトしてから半年余りになる。
モリゾウと並んで新宿三丁目の改札を出て、いつもの出口から地上に出る。目をつむっても迷わず着けるくらい何度も通った道だ。久しぶりだと、どんな顔して会えばいいのかと身構えてしまう。初めて店を訪ねたときよりも緊張している。同窓会のドキドキに似ているだろうか。行ったことはないけれど。
重い木のドアを開けると、店の中は香ばしいにおいで満たされていた。
「シューのにおいがする!」
思わず言った途端、声と一緒に気まずさとぎこちなさも解き放たれた。
「もう来たん?」
カウンターの中のマスターの返事は、相変わらず力が抜けていた。見慣れたエプロン姿も変わっていないが、黒地に目立つ小麦粉の白が新鮮だ。
「朝から焼くって言ってたから、そろそろかなと」
モリゾウが言った。時計は正午になろうとしている。
「焼いてる焼いてる。朝からずっと。これ3ラウンド目や」
マスターがそう言って、オーブンの扉を開け、天板を引き出した。いつものテンポと温度の大阪弁だ。天板には3かける3に並んだ大ぶりのシュー皮が9つ、もこもこと膨らんでいる。
「そんなにたくさん焼いてるの?」
「配合を色々変えてな、雑穀混ぜたり、水を牛乳にしたり」
数往復の会話で、半年のブランクはあっさり埋まった。来る者拒まず、去る者追わずのマスターは、戻って来る者も拒まない。
「マスター、気合入ってない?」
「そら、せっかくの4周年やから」
「この店、そんなに新しかったっけ?」
「何言うてるん? マキマキとモリゾウの4周年やん」
「わたしとモリゾウの?」
思わずモリゾウを見た。モリゾウは相変わらず口元を緩めている。
「マキマキとモリゾウがここで会うたんが4年前の2月。やろ?」
麻希がモリゾウと初めて会った日は、この店に初めて来た日でもある。マスターに初めて会った日でもある。あの日がなかったら今の麻希はない。モリゾウと結婚していないし、東京にも残っていないかもしれない。布雑貨作家を名乗ることもなかっただろう。
「マキマキがシュークリーム好きやってモリゾウから聞いて、結婚祝いにシュー皮でサンドイッチこしらえたやん? 今度はクリーム詰めて、シュークリームにしたろ、思てな。せっかくやから皮も凝ってみよて思て」
マスターが厨房の作業台に目をやった。焼き上がったシュー皮を網に並べて冷ましている。色合いと質感が違う2つのまとまり。1ラウンド目と2ラウンド目なのだろう。
「クリームまでたどり着けてないんやけど。皮止まりや。『皮止まり』て、舞台のタイトルになりそうやな?」
「あー、ひらがなでありそうですね」
「ひらがななー。か・わ・ど・ま・り。流れるほうの川もあるしなー。シュー皮が桃太郎の桃みたいに川の上から流れてきて、下のほうで溜まって川が行き止まりになる。そんな話?」
「ビーバーダムみたいっすね」
マスターとモリゾウが噛み合っているのかいないのかわからない話を楽しそうに繰り広げる。
「シュー皮を川に流したらふやけちゃわない?」と麻希が口を挟むと、
「ほんまや。シュー皮は川に流すもんやないで」とマスターは言い、「皮の食べ比べ、しよか?」と思いついた。
1ラウンド目のシュー皮を2つ取って、包丁を入れ、ふたを外し、中を見せる。
「皮だけでもおいしいで。ほら、中もええ感じや」
「ここまで作ったんだから、クリーム入れましょうよ。クリームのないシュークリームなんて」
荻窪のパティスリーのシュークリームを食べるつもりでいた麻希は、クリーム抜きなんて考えられない。
「『クリームのないシュークリーム』。なんか、そんなCMなかった?」
「ありそうっすね」とモリゾウが応じる。
「アドレスのないドレス」に似てると麻希は思う。アドレスのないドレスはコンセプトとしてありだが、クリームのないシュークリームはいただけない。
モリゾウは、クリームにこだわらない。電気がついていれば満足な人だから、シュー皮があれば十分なのだ。
「冗談やて。今からクリームやるから、コーヒー飲んで待っとって」
マスターは冷蔵庫へ行きかけて、「コーヒーが先か」と思い直す。クリームに取りかかる前にコーヒーを淹れようとしている。
「わたし、やりますよ」
「ええから、お客さんは待っとって」
麻希はカウンター席のスツールを引き、腰を下ろす。モリゾウはまだ立ったままだ。目はふたを外したシュー皮の内側を見つめている。
「『かわどまり』は、始まりである」
ぼそっと呟いた重低音が芝居がかっている。
「なんやなんや? 何が始まるんや?」
マスターがコーヒーを淹れる手を止め、続きを待つ。
「口を開けたシュー皮は、満たされるのを待っている。そこにあるのは空虚ではない。何色にも染まれる自由だ」
「ないクリームやなくて、シュー皮を見る。ドーナツの穴やなくて、ドーナツを見る、みたいなやつやな」
ドーナツはドーナツで完結してるからシュークリームとは違うけど。
麻希はそう
思いつつ、そっか、何を詰めてもいいのかとモリゾウの言葉に気づかされる。クリームのないシュークリームは、完成する楽しみを残してくれているのだ。
と、ドアを押す音がした。
定休日だが、「CLOSED」の札は出していないからお客さんが来てもおかしくはない。
「やってます?」
戸口から聞こえてきたのは、よく知っている声だった。
次回2月22日に佐藤千佳子(61)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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