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連載小説『漂うわたし』 第197回 伊澤直美(65) ふたりの遺伝子

カルチャー

2025.08.09

【前回までのあらすじ】makimakimorizoのオンラインショップでひまわりバッグを代理購入した伊澤直美と所有者である義姉・伊澤亜子の訪問を受ける多賀麻希。「里帰り」と亜子から返されたバッグが縮んだように感じ、作品への執着が膨らんでいたことを自覚する。麻希にバッグの型紙を公開することを提案する夫・モリゾウは、自身も戯曲をデジタルアーカイブに登録しようとしており、「俺は、自分の遺伝子は残せないからさ」と漏らす。

連載:saita オリジナル連載小説『漂うわたし』

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漂うわたし

第197回 伊澤直美(65) ふたりの遺伝子

「今からじゃ遅いかな」

モリゾウがそう言ったのは、ひまわりの種のことだ。今から蒔いても遅いかなと言っているのだが、麻希には自分たちのことを言っているように聞こえてしまう。

「俺は、自分の遺伝子は残せないからさ」

モリゾウがぽつりと漏らした言葉が、こびりついて落ちない油汚れみたいに引っかかっている。拭い去ろうとしても落ちず、汚れが広がるばかりだ。

今からじゃ手遅れなのかな、わたしたち。

悪いほうへと想像が引っ張られるのは、今に始まったことではない。卑屈とは長いつき合いだ。「マキマキ」という小学校時代のあだ名を中学校に上がって取り上げられ、もっと明るくて可愛くて「マキマキ」にふさわしい同級生がその名で呼ばれるのを聞かされるたび、鬱屈と屈折が加速した。マキマキとその取り巻きたちの笑い声が弾けると、自分が笑われているような気がした。

笑顔の女子集団を離れて見ているセーラー服姿の麻希の後ろ姿

派遣社員時代、ランチタイムに正社員の女子たちが「どうする?」「やめとく?」と話していると、自分をランチに誘うかどうかで揉めているのかと傷ついた。実際には、どの店に行くかの相談をしていたのだが。目が合って、そこにいたんだと初めて気づかれたようなリアクションをされて、「多賀さんも行く?」と行きがかり上仕方ないといった調子で誘われると、それはそれでどう答えて良いかわからず、挙動不審になった。

「わたし、ダイエットしてるから!」

自分でもよくわからない理由で、やけに元気よく断ると、誘ったほうはホッとした顔になり、行くって言ったら困らせてしまったんだなとわかり、また落ち込んだ。

最後の恋人だったツカサ君が故郷の山形に帰ってしまうと、自意識過剰と被害妄想のスパイラルで自己肯定感は落ちるところまで落ちた。底を打ったのは、モリゾウと出会ったからだ。役者崩れで収入がなく、住むところもなく、麻希の部屋に居着いた。麻希を気後れさせるほどの日なた感はなく、生活力では麻希が優位だった。ツカサ君以来の、麻希を見下さず、消費しない男性だった。

モリゾウはmakimakimorizoというオンランショップを立ち上げ、麻希が作る布雑貨を「作品」として売り出し、麻希を「作家」にした。居候がビジネスパートナーになり、恋人になり、夫になった。

ささくれのようなすれ違いや衝突は何度もあった。もつれたりほどけたりした糸を結び直して、ふたりは続いていくのだろうと思っていた。

ふたりで続いていく。
ふたりを続けていく。

左右から伸びて真ん中で結び合わされるオレンジの刺繍糸とグリーンの刺繍糸

なのに、今また、糸がほどけた。

左右から伸びたオレンジの刺繍糸とグリーンの刺繍糸の端同士が見合うように距離を取っている

ふたりの糸が離れていく。麻希だけがそう感じている。

どうしてこんなに心が波立つのだろう。ひまわりの種だから?

ひまわりは種を蒔くと、芽が出て、茎が伸び、葉を広げ、てっぺんに花をつける。花が終わると種ができる。ひとつの種からたくさんの種が取れる。たくさんの遺伝子を残す。

わたしたちは? わたしとモリゾウは?

ふたりの遺伝子を残せるのだろうか。

オレンジとグリーンの縞模様のひまわりの種から伸びたDNAのらせん構造がフェイドアウトする

「自分の遺伝子は残せない」とモリゾウは言った。夫のモリゾウが残せないということは、妻である麻希も残せないということだ。

だが、モリゾウは「俺たちは」ではなく、「俺は」と言った。モリゾウは遺伝子を残せないけれど、麻希は残せる。そんなことがあるのだろうか。モリゾウの身体に原因があるということだろうか。

避妊をせず、モリゾウの種を麻希の中に解き放ったことは、何度かあった。できないほうが良いとは思っていた。できたときはできたときという開き直りもあったが、なんとなく、できないような気がしていた。できないのは、麻希の側に理由がある気もしていた。それもなんとなく。

その仮説は実証されつつある。

ひまわりの種を持ってきたのは美枝子さんだ。家主の野間さんの友人だから邪険にはできないが、あの人は、いつだって突然だ。前触れもなくチャイムを鳴らし、なぜ今これをと戸惑うようなものを置いていく。置いていくというより押しつけていく。

花咲く団子のときもそうだった。田沼深雪の訪問を待っていたら、現れたのは美枝子さんだった。

田沼深雪がひまわりバッグを持って友人の披露宴に出席した美しい姿が拡散され、予期せぬ形でひまわりバッグが注目を集めてしまった騒ぎについて、会って話をすることになっていた。桜の花びら舞う団子なんて、浮かれて歓迎しているように思われるのではないかと当惑した。

結局、田沼深雪とは深刻な話にはならず、ふたりで和やかに団子を食べたのだが、麻希にとって美枝子さんといえば、突然かき混ぜ棒を突っ込んでかき混ぜて去っていくような人なのだった。

ひまわりの種だって、本人には、麻希の心をざわつかせている自覚はまるでないのだろう。蒔きどきを過ぎた去年の種なのか、今年採れたばかりの種なのか、わからないが、よりによって、このタイミングで種を持ってきた。しかも、ひまわり。

幾重にも麻希に揺さぶりをかけてくる。

桜の花びらをかたどった練り切りに彩られた串刺し団子。幻のような桜の花びらが幻のように舞っている

《オレハ イデンシヲ ノコセナイカラ》

年齢的にも、経済的にも、子どもを持つという選択肢は考えていなかった。確認もしなかった。なんとなく合意ができていると思っていた。モリゾウは自分の遺伝子を残したかったのだろうか。それを諦めたから、せめて自分の作品を残そうとしているのだろうか。

戯曲であれ、小説であれ、詩であれ、作家は作品に時間を閉じ込める。そこに作者の人生も閉じ込められる。作者の命が尽きても戯曲は残り、それを演じる人がいる限り、次の世代へ受け継がれる。麻希は演劇には明るくない。つき合いでチケットを買った小劇場の舞台をいくつか観たくらいだが、シェイクスピアが400年あまりも前に書いた戯曲が今も上演されているのは、子孫が増えているようだと思う。

自分が手がけるバッグやポーチが100年残るとは思わない。縫製はしっかりしている。物理的には数十年は持つだろうが、使い続けてもらえる寿命は、もっと短いだろう。捨てられるか、飽きられるか、現役でいられるのは、十年にもならないかもしれない。

所詮は商品だからという冷めた気持ちがある。作品ではなく、消費材。そう割り切る一方で、少しでも特別に思われたい、大切に扱われたい、長く愛されたいという欲がある。自分が手がけたものは、人生の一部を分けた分身なのだ。生まれてきた価値があると思われたい。自分も、自分が手がけたものも。

映画『幸せのしっぽ』に自分がデザインした衣装が採用され、それが形になり、ヒロインがまとった姿をスクリーンで見たとき、誇らしかった。クレジットされたのはケイティだったけれど。ポスターにもDVDのパッケージにも、その衣装姿のヒロインのビジュアルが使われている。今も、あの衣装可愛いとつぶやいてくれる人がいる。

わたしがデザインしたんだよ。誰も知らないけど。

映画『幸せのしっぽ』衣装デザイン画。ワンピースの後ろリボンの位置にあしらった黄色い花の中心からヒロインの茶色いしっぽが飛び出している。

ひまわりバッグにモリゾウが6万円という強気な値段をつけ、その値段で売れた。自分にも値打ちがあるのだと思えた。ケイティにデザインを盗まれ、大量生産され、ケイティ信者の開運グッズにされてしまったけれど。

「盗まれたってほどのデザインじゃないですから」と卑下した麻希に、「そう言っていいのは、本人だけです」と田沼深雪は言った。咎めるような口調だった。叱られてうれしかった。ケイティのひまわりバッグを怒っている人がいる。わたしの他に。

ケイティが盗んだのはデザインだけではなかった。何も作る気がしなくなった麻希に再び針を持つ機会をくれたのが、田沼深雪だった。リフォームを頼まれたドレスの裾にクローバーの刺繍を施した。役目を終えたそのドレスを持っていて欲しいと田沼深雪に言われた。ドレスは今、裸のトルソーに着せられ、モリゾウが植えたクローバーが生い茂る庭を向いている。

《ワタシハ イデンシヲ ノコセナイカラ》

美枝子さんが置いて行ったのは、ひまわりの種だけではなかった。

「わかった!」

ドアを開け放った隣の部屋から女の子の明るい声がする。美枝子さんの孫、17歳、高校3年生。

あのときの子を産んでいたら、あれくらいになっているのか。

罫線

次回8月16日に多賀麻希(65)を公開予定です。

編集部note:https://note.com/saita_media
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著者

今井 雅子プロフィール

今井 雅子

脚本家。 テレビ作品に連続テレビ小説「てっぱん」、「昔話法廷」、「おじゃる丸」(以上NHK)。2022年「失恋めし」をamazon primeにて配信。「ミヤコが京都にやって来た!〜ふたりの夏〜」(ABCテレビ)を9月30日より3夜連続で、「束の間の一花」(日本テレビ)を10月期に放送。映画作品に「パコダテ人」、「子ぎつねヘレン」、「嘘八百」シリーズ(第3弾「嘘八百 なにわ夢の陣」2023年1月公開)。出版作品に「わにのだんす」、「ブレストガール!〜女子高生の戦略会議」、「産婆フジヤン〜明日を生きる力をくれる、93歳助産師一代記」、「来れば? ねこ占い屋」、「嘘八百」シリーズ。音声SNSのClubhouseで短編小説「膝枕」の朗読と二次創作をリレー中。故郷大阪府堺市の親善大使も務めている。

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