連載記事

連載小説『漂うわたし』第200回 佐藤千佳子(68)「そういうことじゃなくて」

カルチャー

2025.09.06

【前回までのあらすじ】パート先のスーパーで夏の焼きいもがヒットしている佐藤千佳子。アイスとのあわせ買いの仕掛け人は、かつて冬の焼きいもをヒットさせた夫の母、美枝子。アムステルダムで暮らしているかつてのパート仲間で美枝子をパートに誘った野間さんも噛んでいた。取り残されたようで面白くないが、娘の文香と食べようと焼きいもとアイスを買って帰る。だが、文香は帰宅せず、悶々と思いを巡らせる千佳子の前でアイスが溶けていく。

連載:saita オリジナル連載小説『漂うわたし』

佐藤千佳子の物語一覧はこちら

漂うわたし

第200回 佐藤千佳子(68) そういうことじゃなくて

インターホンのチャイムの音で我に返った。文香が帰ってきたのだ。

夫も文香も鍵を持たずに家を出る。帰宅したときに千佳子がいるものだと思っている。実際いるのだが、当たり前だと思われていることに、それでいいのかと問題提起をしたくなる。帰宅時間にわたしがいなかったら、夫と文香はどうするだろう。うろたえ、途方に暮れるだろうか。

困らせてやりたい。安心しきっている凪いだ日常に波風を立ててやりたい。ささやかな反抗心が膨らむ。ちょっとワクワクする。

あ、でも、困らないか。地下鉄で数駅離れた義父母の家へ行けば解決する。なんだ、つまらない。

文香のインターホンに応答し、玄関のドアを開けに行く間に、千佳子はそんなことを思う。

「お腹すいたー。なんかない?」 

ドアを開けた千佳子の脇をすり抜け、文香は前のめりに廊下を突っ切り、ダイニングへ進む。リードに首輪を引っ張られ、脚がかろうじてついてくる飼い犬のようだと千佳子はその後ろ姿を見る。

「なんかあった!」 

先にダイニングに入った文香が歓声を上げる。キッチンカウンターの上の焼きいもとアイスを見つけたのだ。

キッチンカウンターに置かれたうつわに盛られた焼きいもとアイス。焼きいもの上でアイスがほぼ溶けている。

千佳子が追いつくと、文香はうつわを手に取っていた。

溶けたアイスの海の中から小さくなった固まりが顔を出している。明くる朝の雪だるまの頭みたいだ。 

焼きいもの上のアイスは溶けきっていなかった。千佳子がスーパーマルフルから持ち帰ったときはまだ熱を蓄えていた焼きいもが冷め、溶け止まったのだろう。室内の熱気はエアコンの冷風に置き換わっている。

「焼きいもアイス、食べたかったんだ!」 
「ふーちゃん、待って」 

文香が立ったまま輪切りの焼きいもをつかもうとするので、千佳子は慌ててカウンターの中からスプーンを手渡し、「座って」とつけ足す。 

椅子に腰を下ろすのももどかしく、文香は溶けたアイスと焼きいもにスプーンを突っ込んで口に運び、「んんー」と感嘆の声を上げる。

「そんなにお腹空いてたの?」
「自習室で最後まで残ってたから」
「ずっと勉強してたの?」
「他に何するの?」

高3の2学期。ギアを上げていく頃だ。夏休みに入ったばかりの頃は、何から手をつけていいかわからない様子だった。夏休み前に返ってきた模試の結果が思わしくなくて、「もうダメ。ムリ」と投げやりになっていた。それが、いつの間にか吹っ切れた顔になっている。

おいしそうにアイスのせ焼きいもを食べる文香。夏服の白シャツ姿。左手にうつわを持ち、右手のスプーンですくい、口に運ぶところ。

「頭使うと、カロリー消費するんだよね。動画見るとスマホのバッテリー消費が早くなるの、わかる」
「遅いから、なにか食べてくるのかなって思った」
「ていうか、焼きいもアイス、買って帰ろっかなって一瞬思った。ママ、エスパーじゃん」

お腹を空かせて帰宅したら、待ち構えていたかのように焼きいもとアイスが用意されていて、喜んで夢中で食べている。アイスがこんなに溶けるまで、うつわの前で母親が考え事をしていたなんて思いもよらない。焼きいもの熱で一気にアイスが溶けたと思っているのだろうか。

健やかだなと千佳子は思う。うらやましくなるほど健やかだ。

アイスが落っこちて、ギャン泣きしてたあの子がねー。

幼い頃の文香と目の前の文香を重ねて、千佳子はしみじみとする。子どもがこんなに変わったのだから、それだけの時が流れたのだと実感する。

「ふーちゃん、昔からアイス好きだよね」
「昔って、いつ!? まだ17なんだが」
「ふーちゃんが子どもの頃」
「まだ子どもなんだが」

文香は笑ってスプーンを口に運ぶ。しゃべりながら食べてもポトリと落としたりはしない。

あの日、口に運ぼうとしたアイスがスプーンからテーブルに落ち、文香はファミレスじゅうに響き渡る声で泣きだした。近くの席にいたスーツ姿の男性に黙らせろと怒鳴り込まれ、千佳子まで泣きそうになった。他の客も店員も見て見ぬふりで、誰も味方になってくれなかった。それが何よりこたえた。以来、そのファミレスには行けなくなった。しばらくは系列店にも行けなくなった。ロゴを見るだけで体が震えた。

たぶん文香は覚えていない。それでいい。振り回されるのは親だけでいい。

ファミレスでアイスを前に大泣きする幼い文香

「焼きいもアイス、うまうまー」
「ふーちゃん、さっきから思ってたんだけど、焼きいもアイスって、焼きいも味のアイスみたいじゃない?」
「そう? じゃあ、アイス焼きいも?」

文香は代わりの案を出してから「それだと凍らせた焼きいもか」とすぐに引っ込める。

「焼きいも・オン・アイスは?」 

アイススケートのイベント名のように千佳子が言うと、

「焼きいもの上にアイスだから、アイス・オン・焼きいも、じゃない?」

「さすが受験生」と千佳子が思わず拍手すると、「onの使い方は中1だよ」と笑われた。パセリ先生の動画を何周も見て、わかったような気になっているけれど、基礎的な部分が抜け落ちているらしい。

呼び方はなんでもいい。こういうどうでもいい話をしたかった。余計なことを考えて悶々とする代わりに。

「でも、ばあばは、焼きいもアイスって呼んでる」

千佳子は笑顔が固くなるのを自覚する。せっかくどうでもいい話をして、義母を頭から追い出したのに。

「ふーちゃん、ばあばと焼きいもとアイスの話、したの?」
「っていうか、一緒に食べた」
「食べたことあったの?」
「そう。だからまた食べたいって思ったの」

なんだ、初めてじゃなかったのか。

「ばあばと、いつ食べたの?」
「ちょっとママ、どうしたの? 職質?」
「いつ?」
「先生の家に持って行ったの」
「先生って?」
「英語の」
「学校の?」
「ちがうよ。パセリ」
「パセリ先生⁉︎」

声が裏返った。

スーパーで買い物するパセリ先生とマキマキさん

動画配信サービスの英語のパセリ先生。

今はアムステルダムにいる野間さんの留守宅に引っ越してきたからご近所さん。野間さんに贈られたチューリップバッグの作者、マキマキさんの夫でもある。

夫婦でマルフルに買い物にも来る。知らない仲ではないのに。あちらからも聞いていない。

「ママ、何びっくりしてるの? パセリ、英語の先生じゃん」
「あの人、個別指導もしてるの?」
「私が初めて、なのかな? ばあばが頼んでくれた」

今、パセリ先生が夫婦で暮らすあの家で、義母は野間さんと暮らしたことがあるのだ。義父と些細なことでケンカして家を飛び出し、息子一家の家に転がり込んでしばらくした後。

義母が気まぐれに届けものを持って様子を見に行っていることは、誰から聞いたのだったか。義母本人ではなかった。野間さんの留守宅を祖母なりに守っているつもりらしい。そういうお節介をする人ではなかったが、退屈なのだろう。自分が満たされていないと、別なもので埋めようとしてしまう。

「ちゃんと言ってよ。うちの店にも買いに来てくれたりするんだから」
「言ってなかったっけ? パセリの英語わかりやすいって言ったよね?」
「動画のこと言ってるんだと思ってた。直接教わってるなんて聞いてない」
「今言った」

そういうことじゃなくて。

「先生の家で教えてもらってるの? ご迷惑じゃない?」
「暑いし、来てもらうほうがいいって」
「それで、焼きいもとアイス食べたの?」
「おいしいってすごく喜んでた。もちろん謝礼は別。ばあばがちゃんとお礼してくれてるから大丈夫」

そういうことじゃなくて。

「いいじゃん。パセリのおかげで英語のモチベ上がったんだし」

そういうことじゃなくて。

もやがかかったように霞んだピンクのチューリップ

どうして、都合よく透明人間にされてしまうんだろう。

わたしのほうが先にパセリ先生を知っていたのに。わたしだって、文香が英語で伸び悩んでいること、知ってたのに。

どうして、わたし抜きに世界は回っているんだろう。わたし抜きだとうまく回ってしまうんだろう。

マキマキさんには千佳子が企画したハーブマルシェのプレゼン資料用にイラストを何点か描いてもらったが、イベントは棚上げになった。その後、子ども服の古着をリメイクしてエコバッグを作りたいと常連客の白杖のカズサさんに相談され、マキマキさんにつないだが、カズサさんの意向で取りやめになった。

何に引っかかっているのか、うまく言葉にできない。面白くないと腹を立てる元気もない。熱に負けてだらりと広がるアイスみたいに力が抜けていく。わたしというアイスを固めているものって、なんて頼りないのだろう。

口の中が乾いて、ざらついて、ジャリジャリする。砂の入ったアイスを食べたら、きっとこんな感じだ。

線

次回9月20日に伊澤直美(67)を公開予定です。

saita編集部noteで『漂うわたし』制作秘話を公開中♪

編集部note:https://note.com/saita_media
みなさまからの「フォロー」「スキ」お待ちしています!

著者

今井 雅子プロフィール

今井 雅子

脚本家。 テレビ作品に連続テレビ小説「てっぱん」、「昔話法廷」、「おじゃる丸」(以上NHK)。2022年「失恋めし」をamazon primeにて配信。「ミヤコが京都にやって来た!〜ふたりの夏〜」(ABCテレビ)を9月30日より3夜連続で、「束の間の一花」(日本テレビ)を10月期に放送。映画作品に「パコダテ人」、「子ぎつねヘレン」、「嘘八百」シリーズ(第3弾「嘘八百 なにわ夢の陣」2023年1月公開)。出版作品に「わにのだんす」、「ブレストガール!〜女子高生の戦略会議」、「産婆フジヤン〜明日を生きる力をくれる、93歳助産師一代記」、「来れば? ねこ占い屋」、「嘘八百」シリーズ。音声SNSのClubhouseで短編小説「膝枕」の朗読と二次創作をリレー中。故郷大阪府堺市の親善大使も務めている。

この記事をシェアする

気になるタグをチェック!

saitaとは

連載記事

saita オリジナル連載小説『漂うわたし』

人気記事ランキング

ランキングをもっと見る