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連載小説『漂うわたし』 第195回 伊澤直美(65)「子ども時代2周目」

カルチャー

2025.07.19

【前回までのあらすじ】夫の姉(亜子)とともに、それぞれの娘を連れ、ひまわりバッグの作者(多賀麻希)に会いに行った伊澤直美。亜子と麻希は話が弾むが、直美は気後れを感じる。仕事があって、子どもがいて、十分充実しているはずの毎日だが、空気を入れても入れても抜けてしまう自転車のタイヤみたいな空しさを抱えていた。

連載:saita オリジナル連載小説『漂うわたし』

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漂うわたし

第195回 伊澤直美(65) 子ども時代2周目

両手の指に力を込め、水鉄砲を飛ばすひとり娘の優亜を見ながら、あれからもう半年かと直美は思う。

優亜は1月22日生まれ。7月22日で3歳半になる。

3歳の誕生日のとき、雪を見たいという優亜の願いを叶えようと、一家で越後湯沢へ行った。

いや、優亜は「雪を見たい」と言ったのではなかった。

絵本を開いて、「ゆき あるねえ」と言い、
窓の外を見て、「ゆき ないねえ」と言ったのだ。

当時、「ある」と「ない」で世の中を見ることを覚えたばかりだった優亜は、絵本の世界と現実の違いを雪のありなしでとらえたのだった。

同じものを見ていても、大人と子どもでは見え方が違う。雪を見に行った旅先で、そのことを強く感じさせる出来事があった。

雪を固めて作ったねずみをホテルの部屋に持ち帰ったあくる朝、暖房のきいた部屋で溶けてしまった雪ねずみを見て、直美とイザオはあわてたが、目を覚ました優亜は、屈託なく言った。

「おめめ、あるねえ」

雪ねずみを置いていた皿には、目玉だった黒い小石が二つ、雪が溶けた水に囲まれ、取り残されていた。

どうしてこうなっているのだろうと謎を解くように首をかしげた優亜は、わかったという顔になり、明るい声で言った。

「ゆきねずみさん、おめめ、わすれてる!」

その言葉に、その発想に、ハッとした。

直美とイザオは溶けて消えてしまった雪を嘆き、取り返しのつかないことをしてしまったと心を痛めたが、優亜は残された小石を見て、わすれものだと思ったのだ。

雪ねずみのわすれものは、直美とイザオが大人になる途中のどこかに置き忘れてきた無邪気な感性を思い出させてくれた。

雪だるまを固める3才の優亜

あれから半年。季節は真夏を迎え、雪を固めていた小さな手は、半年分大きくなり、水鉄砲を飛ばしている。

この頃の優亜の口癖は、「どうして?」だ。

何をするにも「どうして?」と聞いてくる。

すぐには気のきいた答えが見つからないし、いい加減なことも教えられない。どうしたものかと保育園の連絡帳で相談したところ、

「一緒に考えてあげたらいいんですよ」

とベテラン保育士さんから明快な答えをもらった。

子どもは答えを知りたくて「どうして?」というより、「どうして?」を共有したい。だから、「どうして?」と聞かれたら、「どうしてだろね」と一緒に考えればいいというのだ。

「どうしてだろね」と応じると、大抵は優亜のほうが先に答えを考え、出してくる。それを「へーえ」「なるほど」と受け止め、「そしたらどうなるの?」とその先を問うと、さらに掘り下げた答えを出してくる。

雪玉を転がして雪だるまになるように、問いを重ねると答えが膨らんでいく。雪だるまが雪ねずみや雪うさぎに姿を変えたように、思いがけない面白い形が現れたりする。

今日もそうだった。

「どうして、ゆあちゃんがおしたら、みずがでるの?」

公園に来て、水鉄砲で遊び始めるなり、そう聞かれた。

「どうしてだろね?」

直美より先にイザオが聞いた。イザオも連絡帳のアドバイスを実践している。

現実的に答えれば、水鉄砲の引き金を引くと、水を押しとどめている弁が開くから、だろうか。だが、仕組みがどうなっているかを説明する前に、まずは一緒に不思議がってみる。優亜のほうが面白い答えを持っているかもしれない。

「うーん」と優亜はしばらく考えてから言った。

「ゆあちゃんが、おすまえは、まっててね、していて、ゆあちゃんが、おしたら、いいよのあいずだから」

そう言われて、イザオは「そっか」と感心したようにうなずいてから続けた。

「優亜にいいよって言われるまで、待ってるんだ? お利口さんだね」

イザオは水鉄砲の中の水をほめたのだが、優亜は自分がお利口さんと言われたみたいな誇らしげな顔になった。

「そうだよ。はやく、おそといきたいな、いきたいなっておもって、まっているんだよ」
「へーえ。どうして、早くお外に行きたいの?」

イザオが「どうして」と聞く側になった。

「だって、おそと、ひろいでしょ」
「そうだね。水鉄砲の中、狭くて窮屈だもんね」

水鉄砲から放たれた水の飛沫がきらめく背景に青空と緑の木立。

父娘の会話を聞いていると、水鉄砲から飛び出した水が、意志を持った雫の集まりに見えてくる。

「優亜、お水さんたち、なんて言ってる?」

直美が聞くと、

「わらってるよー」

優亜が笑いながら言う。

「笑ってるの?」
「笑ってるんだ?」

直美とイザオが同時に言うと、

「うん。わっはっはーってわらってるよー」

なるほど。水も「わっはっはー」と笑うのか。

直美はそんなところに感心する。

水の笑い声を大人が考えるとしたら、「ぴちゃ、ちゃっちゃっ」「ぴゃっ、ぴゃっ、ぴゃっ」などと水らしさを出そうとしてしまう気がする。

だが、優亜に聞こえている水の笑い声は、人間と変わらない。そこに子どもの視点を感じる。

わっはっはー。わっはっはー。

飛び散る水飛沫たちが、解き放たれて歓声を上げている。

「ママにも聞こえた。お水さんが笑ってる声」
「パパにも聞こえたよ」

優亜の笑顔がさらに大きくなった。

「みんな、わらってるよ。せかいじゅう わらいちゅう」

「世界中、笑い中?」

直美が聞き返すと、

「なんか、ラップみたいだな」

イザオはそう言ってから、

「楽しい歌みたいだね」

と優亜がわかる言葉に言い直した。

「せかいじゅう わらいちゅう わっはっはー わっはっはー」

即興でメロディをつけ、優亜が歌い出す。

「あ、『せかいじゅう』の中に『かいじゅう』がいる!」

イザオが気づいて、声を弾ませた。

「せかいじゅう わらいちゅう かいじゅうも わらいちゅう わっはっはー わっはっはー」

優亜の歌が長くなった。

優亜誕生をお祝いして、プレゼントを持って集まってくるゾウ、キリン、シマウマ、鳥たち。

「平和だね」

直美の口からそんなつぶやきがこぼれた。優亜にでもイザオにでもなく、目の前の今に向かって。

銃の代わりに、水鉄砲を。
涙の代わりに、笑う水飛沫を。
怪獣も笑う世界。

水鉄砲の中の水が減るにつれ、上向きの放物線を描いていた水の勢いが次第に弱まり、やがて出なくなった。引き金を引くと、ふがふがというような力の抜けた音だけが聞こえる。

優亜は水が出なくなったと思うのではなく、空気が出ていると思うのだろうか。空気たちも笑っているだろうか。

「おみずさん、どこいったの?」

優亜に聞かれた。

「飛んで行ったお水さんたち? どこ行ったんだろね」

直美が質問を噛み砕いて、問いかけ直す。

「あっちこっちに遊びに行ってるんじゃないか。ブランコとかすべり台とか」

イザオがそう言うと、優亜がさらに聞いた。

「それからどこいくの?」

それから?

「お空の上に遊びに行くんじゃないかな」

イザオが言った。水が蒸発して雲になる。そのことを言っているのだろうか。

「それからどこいくの?」
「それから? お空の上で遊んだら、また帰ってくるんじゃないかな」
「どうやってかえってくるの?」
「どうやって? いい方法があってさ」

イザオが空に浮かぶ雲を指差した。

「雲になって、雨になって落ちてくるんだ」
「くもになって、あめになるの?」

優亜が目を丸くする。

「さすが理系。自然科学の話をしてる」

と直美が拍手すると、

「小学校で習うだろ?」

とイザオは笑った。

優亜がいつか理科で雲や雨のことを習うことがあったとき、今日の会話を思い出すだろうか。

優亜は水が出なくなった水鉄砲と雲を交互に見ている。今聞いた話を自分の中に落とし込んでいるのだろうか。

「わかった! みずは、くものたねなんだね」親子3人を連想させる3つの新芽

水は雲の種。

「やっぱり優亜は詩人だね」と直美。
「曲も作れるし、シンガーソングライターだ」とイザオ。

親バカ全開だ。

「優亜だけじゃなくて、子どもはみんな天才クリエイターなんだろな」
「わたしたちもそうだってこと?」

3歳半の自分がどんなことを考えていたか、思い出せない。母は何か書き留めたりしていただろうか。

「優亜を見てると、忘れている子ども時代を追体験できる気がする。自分にもこんなことがあったのかなって。子育ては子ども時代2周目だな」

イザオが言った。

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次回7月26日に伊澤直美(66)を公開予定です。

編集部note:https://note.com/saita_media
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著者

今井 雅子プロフィール

今井 雅子

脚本家。 テレビ作品に連続テレビ小説「てっぱん」、「昔話法廷」、「おじゃる丸」(以上NHK)。2022年「失恋めし」をamazon primeにて配信。「ミヤコが京都にやって来た!〜ふたりの夏〜」(ABCテレビ)を9月30日より3夜連続で、「束の間の一花」(日本テレビ)を10月期に放送。映画作品に「パコダテ人」、「子ぎつねヘレン」、「嘘八百」シリーズ(第3弾「嘘八百 なにわ夢の陣」2023年1月公開)。出版作品に「わにのだんす」、「ブレストガール!〜女子高生の戦略会議」、「産婆フジヤン〜明日を生きる力をくれる、93歳助産師一代記」、「来れば? ねこ占い屋」、「嘘八百」シリーズ。音声SNSのClubhouseで短編小説「膝枕」の朗読と二次創作をリレー中。故郷大阪府堺市の親善大使も務めている。

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