第157回 佐藤千佳子(53)推しが職場にやって来た
その日は油断した頃にやってきた。
パセリ先生との対面の日だ。
動画学習サービスで英語を教えている先生のことを千佳子が勝手に「パセリ先生」と呼んでいる。後ろで束ねられたウェーブのかかった髪が、パート先のスーパーで売っている袋入りのパセリみたいだから。「もずくじゃない?」と言っていた娘の文香も、「パセリ」と呼び捨てにするようになった。
「パセリって名前なんだっけ?」
文香は覚えていないが、千佳子は「武田唯人」という名前も覚えている。その名前で検索したこともある。
動画学習サービスは文香が中学2年生のときに始めた。今、高校2年生だから、丸3年になる。当時も今も文香より千佳子のほうがよく見ている。キッチンで料理をしながら世界史や日本史や古文を学び直している。学び直すと言えるほど勉強して来なかったし、授業で学んだ記憶はほとんど抜け落ちているから、初めて学んでいるような感覚がある。
パセリ先生の英語講座は、学ぶというより浴びている。浸っている。ハーブのアロマのように。数十分程度に細かく分かれた講座が百以上あるのを何周も聴いている。物覚えは決して良いほうではないが、穴の空いたザルを何度も通すと、先に引っかかった単語や文法に、次の単語や文法が引っかかり、ストックがふえていく。1巡目よりは2巡目、2巡目よりは3巡目、パセリ先生の言うことがわかるようになっている。
パセリ先生は声もいいが、発音もきれいだ。この声について行こうと思わせる。パセリ先生の英語を真似して繰り返している。声の出し方も佇まいも役者みたいだなと思っていたが、野間さんに贈られたチューリップバッグを手がける布雑貨ブランド「makimakimorizo」について調べていたとき、「モリゾウ」という名前の人が書いて出演している舞台のチラシがヒットした。
キービジュアルのイラストに描かれた男性は、パセリ先生に似ていた。モリゾウのプロフィール写真を見ると、動画配信サービスで見ているパセリ先生の若い頃の顔だった。
「英語のパセリ先生」は「演劇人モリゾウ」でもあった。
今も演劇をやっているのかは、わからない。ネットで「演劇 モリゾウ」検索すると、「寝ぼけ眼のねじを巻け」という作品がヒットした。4年前の暮れに上演された舞台で、出演者はモリゾウを含めて3人。あとの2人は漢字5文字の「高低差太郎」とひらがな7文字の「めろんぐらっせ」という芸人のような名前で、並べるとカタカナ4文字のモリゾウがまともに見える。
千佳子がmakimakimorizoのことを調べようと思ったのは、電車の中で言葉を交わした女性が先に降りるとき何かを口走り、それが「オリゾウですか?」と聞こえ、千佳子が手にしていたチューリップバッグのことを言っているのではと思い当たり、野間さんにバッグを贈られたときにもらったショップカードを見てみるとmakimakimorizoの名前があり、「マキマキモリゾウですか?」と聞かれたのだと察したからだった。
その女性に見覚えがあった。後で思い出したのだが、千佳子が消費者インタビューで「パセリの花束」の話をしたのが、その人だった。
食品会社の商品企画部で働く彼女は後に「月刊ウーマン」という雑誌でパセリの花束のことを語った。千佳子がたまたま書店で手に取った「月刊ウーマン」がその掲載号だった。パート先のスーパーマルフルに市場調査を兼ねて買い物に来るハーブのマイさんが「月刊ウーマン」に載ったことがあると聞いて、どんな雑誌なんだろうと気になり、仕事帰りにマルフルの隣にある書店に立ち寄ったのだった。
ページをめくり、「パセリだって主役になれる」という見出しで手が止まった。「月刊ウーマン」を手に取ったのは初めてで、どんな表紙の雑誌かも知らなかった。それほど縁のなかった雑誌に自分のことが載っていて、声が出るほど驚いた。家に帰り着くまで待ちきれず、書店の上にあるファミレスで記事を読んだ。
《パセリを花束みたいに活けている話をすごく楽しそうにされた方がいたんです。花束は主役、パセリは脇役ってイメージがありますが、パセリが主役になるんだって新鮮な驚きがありました。私たちが手がけるお惣菜シリーズは、副菜と呼ばれるものが多いんですが、もしかしたら、盛りつけ方や使い方で主役になることもあるのかもしれません。毎日を楽しく彩るのは、なんでもないことに光を当てる想像力なんだと教えられました》
人が自分のことを語ったものを読むのって、こんなにくすぐったいものなのか。
学級通信にさえ登場した覚えがないほど存在感が薄かった千佳子には、新鮮というより初めてに近い感覚だった。
見開き記事で取り上げられていた原口直美というその女性は《同期入社の夫と結婚してもうすぐ5年。子どもはまだいないが、手がけた商品が子どものような存在》だと語っていたが、電車で会ったとき、彼女の膝の上には可愛らしい女の子が座っていた。文香のお下がりのワンピースが似合いそうだと思って、じっと見てしまった。
あれから彼女は親になったのだ。
消費者インタビューはオンラインで、雑誌に掲載されていたプロフィール写真もバストショットだったので、全身と対面したのは電車の中で遭遇したときが初めてだった。だから、「あのときの」とは気づかず、後から思い出した。もしかしたら彼女が関わっているのではと白杖のカズサさんと一緒に申し込んだ試食イベントで再び会えたとき、原口直美さんも千佳子の顔に見覚えがあり、後から思い出してくれたことを知った。誰かの印象に残っていたという事実は、千佳子に「パセリだって主役になれる」ことをあらためて思い出させてくれた。
原口直美さんはmakimakimorizoのバッグを購入したことがあり、それで千佳子が手にしていたチューリップバッグに目を留めたということだった。
会うべき人には会えるようになっている。だから、パセリ先生ともすぐに会える気がしていた。
makimakimorizoは、野間さんに贈られたチューリップバッグの作者であるマキマキさんと公私共にパートナーであるモリゾウさんのブランドだった。「英語のパセリ先生」は「演劇人モリゾウ」であり、「makimakimorizoのmorizo」でもあった。
makimakimorizoはクローバーをあしらった布雑貨も発表していて、ショップカードにはクローバーの刺繍がデザインされている。
パセリもクローバーもリボンを巻いてライトを当ててくれる人がいれば主役になれる。クローバーやパセリが光や養分に向かって緑を広げ、根を張るように、わたしという人間も知らず知らず、新しい扉の向こうへ手を伸ばしているのだと千佳子は思う。
扉の向こうにパセリ先生が現れる日はそう遠くないと思っていた。野間さんの家の最寄りのスーパーはマルフルで、千佳子がここで働いていることも伝えてある。だが、ひと月経っても現れない。買い物には来ているのにすれ違っているだけかもしれないが、こちらが思っているほど相手は思ってくれていないのかと落胆し、野間さんの家に住めることになったのは、わたしだって関係しているのにといういじけた気持ちにもなる。
野菜売り場のパセリが目に入ると思い出してしまうので、見ないようにしていたのだが、レジでお客さんが途切れ、ふと顔を上げた先に、パセリ頭があった。
マキマキさんが隣にいた。新宿三丁目のカフェで会って以来だ。パセリ先生の視線は、マキマキさんが手にしているのはパセリに注がれていた。
パセリ先生がパセリを見ている!
仕事中であることを忘れ、推しを見てはしゃいでいる目になった。
パセリ先生、そのパセリには話せば長い物語があって、パセリ先生も関係しているんです。あ、パセリ先生というのは、わたしがつけたあだ名で……。
次のお客さんがレジ台に買い物カゴを置き、千佳子は仕事モードに切り替える。パセリ先生は、このレジを選んでくれるだろうか。
次回6月8日に佐藤千佳子(54)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
みなさまからの「フォロー」「スキ」お待ちしています!