第163回 佐藤千佳子(55)マルシェは一日で終わるけれど
スーパーマルフルのバックヤードで「ご相談が」と千佳子が店長を呼び止めると、
「夏休みいっぱいはお願いできない?」
と言われた。パートをやめる相談だと思われたらしい。
マルシェを開く相談だと告げ、プレゼン資料を差し出すと、たじろがれた。そんなに意外なのかと千佳子も驚いたが、やめると言い出すと思ったところに示されたやる気は、水風呂の後のお湯を熱く感じるのと同じで、より刺激が強かったのだろう。
つかみはオッケーと心の中でつぶやいた。マルシェを開催できるかどうかは店長にかかっている。
店長は本部から入れ替わり立ち替わり送り込まれる。今の店長は、この春に着任したばかりだ。髪が薄くなりかけているのを分け目で誤魔化しているが、ふとした瞬間に、おでこの広い空き地が見えてしまう。肌にはハリがあるから、歳はまだ40代だろう。髪だけでなく体つきが薄いところも夫に似ている。
「マルフルマルシェ」
表紙のイベントロゴを店長が読み上げた。ことだまというものがあるのなら、店長が口にしたことでマルシェの実現に一歩近づいたことになる。
千佳子もすでに何度も口にしている。深夜のビデオ通話でアムステルダムにいる野間さんを相手にリハーサルを重ねた。野間さんがつき合ってくれたのは、恋人が家族旅行で北欧に出かけていたからで、ぽっかりと空いた週末を千佳子が埋める形となった。
「お客様のリクエストから生まれた企画です!」
野間さんのアドバイス通り、「お客様」に力を込めた。聞いているのかいないのか、店長の反応はなく、黙ってプレゼン資料をめくった。
その視線がイメージ図の上で止まった。makimakimorizoのマキマキさんに描いてもらったものだ。
「ハーブをテーマにしたマルシェです! 夏を乗り切るハーブは見た目にも涼しげで夏らしく、夏にぴったりだと思います!」
「夏」が多いと野間さんに指摘されて減らしたつもりだったが、やっぱり多いな、と言いながら思うくらいには落ち着いていた。
「これってあの人?」
イラストに描かれた緑のエプロンの女性を店長が指差した。
「そうです! ハーブ農園のマイさんです!」
マイさんの会社にはフランス語の洒落た名前があるのだが、読み方に自信がない。マイさんが「うちのハーブ農園」と言うのにならって、千佳子も「ハーブ農園」と呼んでいる。
「SNSでのフォロワー数も万単位ですし、集客も期待できると思います!」
「そんなすごい人なの?」
「はい! マイさんからハーブ関係の出展者さんを募ってもらっています! あとアイタス食品さんにも声をかけて、参加を検討していただいています!」
ほうという感じで店長があらためてイメージ図を見た。この絵があって良かった。説明の足りないところを補って、膨らませてくれる。
マキマキさんには追加で小物のイラストも描いてもらっていた。ハーブを使ったクラフト雑貨や食品、パセリの花束も千佳子のリクエストで入れてもらった。
「開催日は8月28日を希望、ですか」
店長がページをめくり、開催概要を見た。
「8と2でハーブにちなんでその日程にできたらと。夏の終わりに家族連れで楽しんでもらえるお祭りにしたいと思います!」
「平日ですね」
店長が壁のカレンダーに目をやった。
「はい。まずは一回やってみて、次につなげたいと考えています! 毎月28日はマルシェの日にできたらと」
口にすると、どんどん叶いそうだ。
「コストは?」と店長が聞き、千佳子が答える前に資料のページを最後までめくって、「書いてませんね」と言った。
その質問が来ることは想定していた。
「お金はかけません。店の前のスペースだけ貸していただければ!」
野間さんとの打ち合わせ通り、千佳子が言うと、
「かけませんって言ったって、かかるでしょ? チラシ刷ったりとか」
「家のプリンターで印刷します」
「でも、イラストレーターに頼んだりしてるでしょ?」
店長が前のページに戻り、マキマキさんが描いた絵を示した。
「こちらは、マルシェに出展されるデザイナーさんが資料用に描いてくださいました」
「資料用に? グッズ展開は考えてないですか?」
「トートバッグやTシャツにできたらと見積もりを取っているところです」
「著作権の使用料は大丈夫ですか?」
著作権の使用料?
店長の言っていることがよくわからず、頭の中がハテナだらけになった。
「権利関係、気をつけてくださいね。タダだと思っていたら、痛い目に遭うこともありますから。サンスーパーさんみたいに」
店長がライバルチェーンの名を挙げた。サンスーパーが権利のことでもめたのだろうか。
何と返事して良いかわからない。だが、何も知らないと思われたら、マルシェを任せてもらえないかもしれない。
「もちろん。気をつけておきます」
そう言って、広げたメモ帳に「権利関係 サンスーパー」と書きつけた。
「あと、食中毒対策は考えてますか?」
「食中毒ですか?」
「ハーブを使った食品も販売するんですよね?」
店長の口調がさっきより固くなっている。許可の扉を開く手を止め、警戒モードに入っている。
でも、大丈夫。その質問も想定して、答えも用意してあった。
「ハーブちらし寿司やハーブサラダといったお惣菜の販売やお味の紹介を検討したのですが、夏ということで、常温で日持ちのする焼き菓子のみ取り扱うことにしました」
kirikabuさんに声をかけ、生地にハーブを練り込んだクッキーやパウンドケーキの試作を始めてもらっている。
「焼き菓子でも安心はできません。冷房のきいた店内と屋外とでは、環境がまったく違いますよ」
扉が無情に閉められていく。
待って!
「ちゃんとお店を構えているところなので、そこは大丈夫です!」
隙間に足を挟む勢いで千佳子は言葉を挟んだ。
「楽観論ですか」
「もちろん、ちゃんとチェックはします! 安心安全第一で!」
「できるんですか、佐藤さんお一人で?」
できます、と断言はできなかった。
「佐藤さんの熱意は、よくわかりました。コストをかけずに実現させたいというお気持ちも。でも、コストをかけないつもりが、予想外の代償を支払う羽目になることもあるんです。マルシェで何か問題が起きたら、うちの店がかぶることになります。マルシェは一日で終わっても、店は続くんです」
何も言えなかった。店長が正論すぎて。自分が無知すぎて。
深夜のリハーサルで「いけるよ!」と野間さんに言われて、調子に乗った。野間さんがいけると言うなら間違いないと思った。
甘かった。
野間さんは何も背負っていないから無責任に背中を押せたのだ。
「こちら、お返しします」
店長がプレゼン資料を差し出した。マルシェの企画は差し戻された。
マルシェをやったらこんな出会いがある、こんな楽しいことがあるという光の当たるところだけを見ていた。光が当たった向こう側に影ができることを見落としていた。
次回8月10日に佐藤千佳子(56)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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