第164回 佐藤千佳子(56)種は飛びたがっている
「ねえー、なんでダメなの? 夏休みに行こうって言ってたよね?」
娘の文香が口をとがらせる。文香はkirikabuのパンケーキを食べたいのだが、千佳子は気が進まない。
「行けない事情でもあんの? もしかして、マルシェ関係?」
図星だと思うと同時に顔に出たらしい。「やっぱり」と文香が言った。
「なんでわかるの?」
「ママ失速したもん」
「失速?」
「マルシェマルシェって言ってたのに言わなくなったから、なんかあったんだろなって」
当たっている。そんなにわかりやすく浮き沈みしていたのか。
マルシェに出店してもらう前提でkirikabuさんにハーブ入りクッキーや焼き菓子の試作を始めてもらっているのだが、それを止めてもらわなくてはならなくなった。早く伝えたほうが良いのだが、何と言えば良いのか考えているうち、数日経ってしまっている。
という事情を話すと、
「kirikabuだったらパンケーキじゃないの?」
文香の頭の中はパンケーキでいっぱいだ。
「夏だし、生クリームとかフレッシュフルーツは避けて焼き菓子にしたんだけど、それでも心配だって店長に言われちゃったの」
「店長ってkirikabuの?」
「マルフルの」
試作を始めてもらったタイミングで中止を告げるのは、とても気まずい。文香とパンケーキを食べに行ったついでに切り出せる話じゃない。
「夏は食中毒が怖いので、品質が変化する恐れのある食品の扱いを見合わせることになってしまって」
昨日、捻り出した言い訳をブツブツ練習してみてみたが、「何を今さら」と自分で自分に呆れた。夏が悪いんじゃない。店長の決裁もなく思いつきで突っ走ったわたしの見通しが甘かった。
「これだからシロウトは」
心の中で自分にツッコミを入れると、
「これだからシロウトは」
いま思ったことを文香が繰り返した。
「ふーちゃんすごい。超能力⁉︎」
「ママの思考がシースルーすぎ」
今日も考えていることが漏れてしまっている。
「パンケーキは出来立てがおいしいから、お店で食べてもらうほうがいいよね。ってことで、kirikabu行こっ」
「今のママの話、聞いてた?」
「ママ一人だと言いにくいだろから、一緒に行ってあげる」
どうしてもパンケーキを食べに行きたいらしい。
一人で行くより子どもと一緒のほうが、雰囲気が和やかになっていいかもという気がしてきた。
よし。そうしよう。
駅前までバスで向かい、住宅街の坂道を登る。日傘を差しても陽射しが熱い。痛い。
「8月の終わりでもまだ暑いだろし、秋になってからでいいんじゃない?」と文香が言う。
耳の下から首筋を流れる汗を感じながら、千佳子はうなずく。この暑さで屋外での開催だと、確かに焼き菓子だって安心はできない。8月28日の開催は諦めよう。
「ママ、食中毒もだけど、ネットも怖いよ。そっちの対策も考えてないでしょ?」
「ママはSNSやってないから」
千佳子が答えると、文香は「はー」とわかりやすいため息をついた。
「例えばさ、マルシェで買ったものでお腹こわしたお客さんがSNSに書いたら、どうする?」
「まず、事実かどうか確認して、誠意を持って対応する」
「匿名だったら? 拡散されたら? 過去にもこんなことがあったとか掘り返されて悪い噂が広まったら?」
「ふーちゃん、考えすぎじゃない?」
「考えすぎなくらい考えといたほうがいいの。もし炎上したら、火を消すために何をしたらいいのか、燃え広がらないために何をしたらいけないのか。シミュレーションしとかないと、いざというとき動けないでしょ。災害と同じだよ」
文香に一気にダメ出しされ、「高校2年生にもわかることをわかってなかったってショック」と言うと、
「サルに負けた、みたいに言うのやめて。高校生のほうがリスク管理能力高いから」と言われた。
「高校で習うの?」
「中学のときからやってる」
起業家の人を聞く機会が何度かあり、具体例をたくさん聞いているのだという。文香の世代にとって起業は身近で、就職と並んで将来の選択肢の一つになっているらしい。
自分の高校時代とあまりに違い過ぎて、千佳子は目眩を覚える。横浜の高校は進んでいるなと感心する。それとも時代だろうか。
「今のママにメモ取って欲しい言葉いっぱいあるよ。『信用は積み上げるもの。だけどなくすのは一瞬』とか『行き止まりはそこで終わりじゃない。ルートが変わるだけ』とか」
これがファミレスで出禁になるほどギャン泣きしていたわが子なのだろうか。アイスクリームをスプーンから落としたのが悲しくて泣き止まなかった子が、十数年経つと親にビジネスの心得を教えるようになるとは。
暑さを忘れて感心していると、kirikabuの壁が見えてきた。もう少し坂を登ったら、あのいい香りがこぼれてきて、最後の数十歩を励ましてくれる。
「起業家でうまく行ってる人って、共通点があって。人に振るのがうまいの」
「どういうこと?」
「自分で全部やっちゃわないで、いろんな人を巻き込んで、みんなで大きい歯車を回して前に進んでいく感じ」
「ママがマルシェでやろうとしてるの、それなんだけど」
千佳子がそう言うと、文香は「うーん」と微妙な反応を返した。
「人を巻き込んではいるけど、うまく回ってなくない?」
「そんな風に見えてる?」
「ママって、抱え込むじゃない? パセリの花束もそうだけど、大事にしてるものほど、これは私のもの、誰にも渡せないって気持ちが出過ぎちゃうと広がらないんだよね」
「そんなつもりないけど」
「ママ一人でできることには限界があるから、もっと人を頼って、人から引き出したほうがいいと思う」
それは、やっているつもりだ。でも、マキマキさんにイラストを描いてもらったら、権利がどうこうと店長に言われた。なんだろう。仕事ができる人には備わっている何かが決定的に欠けているのかもしれない。
「やっぱりママには荷が重いかも」
「だからママの荷物を軽くすればいいの。店長にこれじゃダメって突き返されたんだったら、じゃあどんな解決法がありますかって聞けばいいじゃん。そしたらアイデアもらえたかもしれない。ここが困ってます、ここがわかりませんって言ったら、助けてくれるから。kirikabuの人も、聞いたら何か考えてくれるかも」
「そんな他力本願でいいの?」
「もちろんママも動くんだよ。チームでやるってこと。『早く行きたいなら一人で行け。遠くへ行きたいならみんなで行け』だよ」
今のも起業家の人の言葉だよと文香は笑った。
パンケーキの甘い香りがどんどん近づく。この香りを嗅ぐと、頭の中がかき混ぜられて、底のほうに埋もれていたことが浮かび上がる。
文香が幼かった頃の記憶が蘇った。
何でも自分で解決しようとして、近くに住む夫の両親に頼ることも遠慮していた。文香が高熱を出し、病院に駆け込んだら、千佳子の熱のほうが高かった。
一人でなんとかしようとしたら命に関わるのだと思い知った。それからは少しずつ人に頼るようになった。基本的に抱え込む性格なのだろう。
「子育てを楽しむ余裕を残しておかないとね」
夫の母は文香を預かるたび、そう言ってくれた。
マルシェを楽しむ余裕。残せてなかったかもしれない。
2年前の暮れ、「一週間は日曜日から始まるか、月曜日から始まるか」がきっかけで義父母は喧嘩になり、義母は息子の家に転がり込んだ。つまり千佳子の家。自分の家なのに居場所が削られていくような居心地の悪さに気が滅入った千佳子を見かねて、一人暮らしの野間さんが同居を引き受けてくれ、「佐藤さん」「野間さん」から「美枝子ちゃん」「喜和子ちゃん」と呼び合う仲になった。頼り合うこと、預け合うことで荷物は軽くなり、景色を楽しむ余裕ができる。
kirikabuの店の前まで来た。
ひときわ強くなったパンケーキの香りに誘われるように、イメージがふわっと広がった。種が膨らんで芽を出し、開いた双葉を羽ばたかせて飛び立っていく。
「飛ばせばいいんだ」
思いつきは同時に外に漏れていて、文香が千佳子を見た。
「ママ、何を飛ばすの?」
「マルシェ」
「どういうこと?」
「kirikabuさんにマルフルまで来てもらわなくても、ここもマルシェの会場ってことにしちゃえば良くない? そしたら出来立てのパンケーキを出せる!」
「ママにしては、ぶっ飛んできたんじゃない? 続きはパンケーキ食べながら話そ」
文香が木のドアを開けた。最大級のいいにおいが母娘を迎えた。
次回8月24日に伊澤直美(55)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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