第27回 伊澤直美(9) あの嫁なんで旧姓使ってるんだ問題
「見たよ、月刊ウーマン」
廊下で、エレベーターホールで、エレベーターの中で、別の部署の人たちに次々と声をかけられた。
「ハラミ、有名人だね」
一緒にランチの店へ向かうタヌキがからかう。
30代半ばの女性社員にインタビューしたいと「月刊ウーマン」から会社の広報あてに取材が入り、直美がいいのではと部長から指名があり、取材を受けることになった。
見映えするタヌキではなく、なぜわたしがと気後れしつつも、仕事ぶりを評価されているのかなとうれしくなった。
インタビューの内容は、「オンラインでの消費者調査」についてだった。赤い口紅が印象的だった主婦の話をした。
「オンラインでの取材だと、相手の方は画面に切り取られてしまいますが、その分、声や話している内容に注意が向き、想像力が働くように感じます。パセリを花束みたいに活ける話をとても楽しそうにされていたんですが、パセリの鮮やかな緑が目に浮かぶようでした」
実際の直美は赤い唇に気を取られていた。パセリの花束の話に食いついたのはタヌキだ。ささやかな毎日の中に彩りを見出す幸せをタヌキは感じ、知らない自分に会ってみたくなって、結婚を決めたのだ。
「『パセリに教えられた彩り』って見出し、いいよね」
「ほぼタヌキの受け売りだよ。タヌキに取材受けてもらったほうが良かったかも」
「やだよ。元カレたちに発見されて、結婚前にもめたくないし。ハラミ、プロフィール写真、可愛く写ってたよね」
「だいぶ修正かけてもらったからね。中学校の同級 生から連絡があって、きれいになってるから別人かなって思ったけど、名前見たらチョッキーだってわかったって」
職場で旧姓を使い続けていると、結婚前と結婚後が名字で区切られることなく、地続きで仕事できる。名刺を刷り直さなくていいし、郵便物も迷子にならない。その一方で、気分新たに結婚後の姓を使うことを選ぶ人もいる。どちらか選べるようになったのは、直美たちが入社して何年か経ってからだ。
歩道の植え込みに紫陽花が咲いている。5回目の結婚記念日が近づいている。「伊澤」の姓で呼ばれるのは病院と役所と銀行ぐらいだが、窓口から「原口さん」が呼ばれると、自分のことだと勘違いして返事をしてしまう。
「タヌキは結婚しても、田沼のままで行くの?」
「そのつもりなんだけど」
「マトメに反対された?」
名字の頭2文字と下の名前の最後の1文字をつなげてあだ名にする同期入社ルールで原口直美はハラミ、直美の夫の伊澤孝雄はイザオ、田沼深雪はタヌキ、タヌキと結婚する的場始はマトメと呼び合っている。
「マトメが田沼を名乗るって言い出して」
「養子になるってこと?」
「ハラミもそう思うんだ? 夫の姓にするか、妻の姓にするか、どっちを選んでもいいんだよ」
今の民法では夫婦は「夫婦は同じ姓を名乗ること」になっているが、「夫の姓を名乗ること」という規定はない。当たり前のように「伊澤」に揃えたが、「原口」を選ぶこともできたのだ。
クレジットカード、キャッシュカード、パスポート、通販の会員登録。あの名義変更の手間とストレスを味わわずに済んだかもしれないと思うと、直美はまた自分だけが損をしたような気持ちになる。
「タヌキ、あらかじめ言っとく。名義変更、ほんと面倒だから。結婚するんじゃなかったって後悔するぐらい。やらずに済むなら、そのほうがいいよ」
「うん。でも、マトメにもやらせたくない」
そうなのだ。夫婦どちらかの姓に合わせると言うことは、変更にまつわる面倒なあれこれが一方に偏ることになる。妊娠、出産は肩代わりしてもらえないんだから、名前ぐらい譲ってもらってもいいのではと直美は思うが、旧姓のままでパスポートやカードが使えたら、それで済む話だ。
うちの会社でやってることを世の中に広げていけたらいいのに。
「少しずつは前進してるよ。マイナンバーカードや住民票に旧姓を載せられるようになったし、それがあればパスポートにも旧姓を載せられるようになったし。ハラミみたいに銀行の窓口でケンカしなくて済むようになるかもね」
そんな話があったから、まさか「月刊ウーマン」に旧姓で載ったことが物議を醸すとは思っていなかった。
イザオあてに実家から「見たよ」と電話があり、記事の感想かと思ったら、「まだ原口直美なんだね」と言われたという。
表札の亡霊を呼び出してしまったかと直美はゲンナリする。
結婚が決まったとき、イザオの父から贈られたのが「伊澤孝雄」と彫られた檜の表札だった。
これをどうしろと?
当時、二人が住んでいたのは、賃貸のワンルームだった。直美が学生時代から住んでいた部屋にイザオが転がり込んでいた。
「かける場所がない」という理由で表札は再び紙に包まれ、箱にしまわれた。
結婚3年目に中古マンションを買い、リフォームして引っ越した頃には、直美もイザオも表札のことは忘れていたが、イザオ父は覚えていた。
「あの表札は?」
それが、新居のお披露目でイザオの両親とイザオの4つ上の亜子姉さんを招いたときのイザオ父の第一声だった。持ち家のマンションなんだから、かけられるだろうという口ぶりだった。
厚みのある檜に縦書きの表札は、リフォームした部屋にもマンションの佇まいにもまったく似合わなかった。表札の醸し出す重厚感も、イザオのイメージにそぐわなかった。「伊澤孝雄」だけ打ち出すのは、イザオの一人暮らしみたいだし、直美の存在を軽視どころか無視しているし、フルネームを記して個人情報全開なのも問題だし、とにかくあらゆる面でいただけなかった。
防犯上のこともあるし、部屋のドア脇にはあえて表札を掲げないことにしたのだとイザオが説明すると、「荷物はどうするんだ?名前がないと届かないだろう」とイザオ父が渋った。
「まずマンション入口のオートロックでチャイム鳴らしてくれるし、留守のときは宅配ロッカーがあるし」
一軒家にしか住んだことのないイザオ父に、「マンションというのは、そういうものだから」と無理やり押し切り、なんとかその場はおさまったのだが、帰りがけに1階の集合ポストを見て、
「伊澤 原口?」
直美の旧姓を併記しているのをイザオ父が見とがめた。
「伊澤だけだと、旧姓あての郵便物が届かないから」とイザオが言うと、「しばらくの間だけだな」とイザオ父は納得した。「伊澤」への移行措置で「原口」を掲げていると理解したらしい。
「表札の恨み、まだ続いていたか」
「いや、電話してきたのは母親。この記事、お父さんには見せないでおくねって」
イザオ父が表札のことでごねたとき、イザオ母は何も言わなかったが、「旧姓を使わないで」は同じ気持ちだったらしい。
「喜んでくれると思ったんだけど、見せるんじゃなかったなー」
イザオのその言葉にカチンと来た。
「何それ? まるでわたしが悪いことしてるみたいじゃない?」
「そうは言ってないけど。ハラミが職場で旧姓を使い続けてるってこと、黙ってたし」
「イザオの親に許可取らなきゃいけないわけ?」
「わざわざ知らせることなかったなって」
「だから、なんでこっちが間違ってる感じになってるわけ?」
「何怒ってんの? 俺、ハラミをかばってるんだよ?」
「うまく説明できないけど、なんか、イライラする」
ザーッと音を立てて降り出した雨が、直美にも叩きつける。わかり合えたと思ったのに、またイザオが遠くなる。モヤモヤして、ムカムカして、何もかもぶちまけたい気持ちになる。スマホと財布の入ったバッグを手に取り、玄関へ向かった。
「どこ行くんだよ?」とイザオの声が追いかける。
わからない。だけど、今はとにかく、イザオと違う空気を吸いたかった。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第28回 伊澤直美(10)「履歴書の職業欄に『母親業』と書いてやりたい」へ。
イラスト:ジョンジー敦子
編集部note:https://note.com/saita_media
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