第81回 伊澤直美(27)創作って埋め合わせだから
童話賞に応募したことを直美が報告すると、亜子姉さんは、「どんな話?」と食いついた。童話を書いたことへの反応より、まず内容に興味を示すところが表現を生業にしている亜子姉さんらしい。
「『かがみっこ ゆあちゃん』って題名で。鏡の前にいるゆあちゃんが、鏡の中にいる赤ちゃんを見て、手を振ったり、声をかけたりして、そのリアクションを見て、また反応して。ただその繰り返しなんですけど」
「あんな感じ?」
亜子姉さんが目をやった先、優亜と亜子姉さんのふたり目の結衣ちゃんが向かい合っている。
結衣ちゃんが手を叩くと、優亜も手を叩く。真似しているのか、つられているのか、結衣ちゃんの動きを見て、優亜が反応している。
優亜を連れて亜子姉さんの家に遊びに来ている。優亜の半年前、7月の終わりに生まれた結衣ちゃんは、1歳になったばかりだ。
1歳になると、あんな感じなんだなと結衣を見ながら直美は半年先の優亜を想像する。あっという間に来そうな気もするし、果てしなく遠いようにも思える。
優亜を産んだときは35歳で、いま36歳。体力には自信があったが、その分、衰えが響く。20代の頃より体が硬い、重い。体力が落ち、息が上がるのが早い。
「ふたり、おしゃべりしてるみたいに見えるね」
優亜と結衣ちゃんを見つめる亜子姉さんのまなざしが優しい。
「わたしたちの噂、してたりして」
「してるよ多分」
優亜は近頃「アウアウ」に加えて、「ゴエゴエ」とよく口にする。機嫌がいいと、「ゴエゴエ」を連呼する。
結衣ちゃんは最近「ハイッ」を覚えた。発音がはっきりしていて、元気のいい返事の「ハイッ」に聞こえる。
「あれ私のモノマネ」と亜子姉さんが苦笑する。
「仕事の電話受けてるときの、よそ行きの返事してる私」
「子どもは見てますね」
「見てるよー。大人はスマホに時間取られてるけど、赤ちゃんは起きている時間、人間観察に使えるからね。直美ちゃんと孝雄も優亜に見られてるよ。言葉遣いも聞かれてる。その前に空気を読まれてる」
結衣ちゃんはスマホを耳に当てる仕草をつけて、「ハイッ」「ハイッ」と繰り返す。それを真似して、優亜もスマホを耳に当てる仕草をして、「アイッ」と言い出し、直美は亜子姉さんと大笑いした。
「姉妹みたいだね。ユイとユア。名前も姉妹っぽい」
「顔もどことなく似てますよね」
優亜はイザオに似ているとよく言われる。結衣ちゃんは亜子姉さんに似ている。どちらかと言えばメリハリがあって濃い顔立ちの亜子姉さんと、どちらかと言えば涼しげなイザオが似ていると思ったことはないが、結衣ちゃんと優亜が並ぶと姉妹のように見えるのが面白い。
「こんな風に優亜を眺められるの、久しぶりかも」
「こんな風に?」
「水族館で魚を眺めるみたいに」と直美が答えると、亜子姉さんは「直美ちゃんのたとえ、面白い」と笑ってから、「どういう意味?」と聞いた。
「自分と切り離せて見れてるっていうか」と直美が言うと、
「あー、そういうことね。普段は一体化しちゃってるもんね」と亜子姉さんは大きくうなずいた。
一体化。
亜子姉さんが何気なく口にしたその言葉で、子どもを産んで以来感じている不自由さの理由に輪郭ができたように直美は思う。
これまで自分一人のために使えていた時間が、自分一人のものではなくなってしまっている。誰かに禁じられているわけではない。だけど、そうはいかない。娘を保育園に預けている時間も、夫に見てもらっている時間も「お母さん」であることに縛られている。
「まあ、創作って埋め合わせだからね」
直美の心の声を聞いたかのように亜子姉さんが言った。
子育て中だから無理しなくていいよという配慮が遠慮になり、チームにいながら輪の外に置かれているような空しさ。なのに、同期入社の夫は何も失わず、イクメンと持ち上げられていることへの不満。そんなモヤモヤを埋めるように童話を書いた。
次どうなる? 次何やる?
物語の流れを考えている間は余計なことを考えずに済んだ。
「ただの現実逃避なのかもしれませんけど」と直美が言うと、
「私、幸太を産んでしばらくは、そんな余裕なんてなかったな」と亜子姉さんが言った。
「現実逃避する余裕、ですか?」
「逃げるってのは、身動きする隙間がないとできないからね。毎日ギチギチで目の前のことに追われてると、自分がご飯食べたかどうかも覚えてないし。満たされていたわけじゃないけど、詰まってたってこと」
カップ入りのアイスクリームに使い捨てのスプーンを突き刺し、塊を崩しながら亜子姉さんが言った。
幸太は夜泣きが激しく、亜子姉さんがほとんど寝かせてもらえなかったことは聞いていた。それが、直美が子どもを持つことをためらう理由にもなっていた。
「寝かせないって拷問だからね。ダンナは寝たフリしてるし」
出産を機に仕事を辞めた亜子姉さんは、美大を出て、広告代理店でアートディレクターをしていた。「幸太を産んで、描きたいものができた」という話も聞いたが、それは、産んでしばらく経ってからのことだったらしい。
「私のときは大変だったって自慢してるわけじゃないからね。ただ、埋め合わせしたいってことは、満たされてないって気づけてるってことで。私が言いたいことわかる?」
わかりますと直美はうなずくと同時に、わたしが埋め合わせようとしているのは、子育てのモヤモヤではなく、別なものなのではないかと思い当たる。
優亜を身ごもったときから、母のことを思い出すことが増えた。直美を身ごもり、産み、育てている、直美の記憶にない時代の母だ。
鏡に反応する優亜を見ながら、自分にもこんな時期があったのだろうなと想像する。その当時の自分を見ている母の視線に想いを馳せる。
優亜と鏡っ子ゆあちゃんを見ているようで、遠い日の母と自分を見ている。
母はどんな気持ちで赤ちゃんだったわたしを見ていたんだろう。
その空白を埋めるために童話を書き始めたのかもしれない。書いた先に答えが見つかることを期待して。それが自分に都合の良い答えだとしても。
少し前、幼なじみのイチカのお母さんに電話をした。イチカのいとこから届いた出産祝いの野菜のお礼を伝えた。
「お母さんお元気?」と聞かれて、「はい」と答えた。母と長い間連絡を取っていないことは言えなかった。幼なじみのお母さんは直美に娘が生まれたことを知っているのに、直美の母親はそのことを知らない。
電話を切る間際、イチカのお母さんに言われたことが引っかかっている。
「たくさん会ってね。会えるのは生きている間だけだから」
次の物語、連載小説『漂うわたし』第82回 伊澤直美(28)「本人に聞けばいいのに」へ。
編集部note:https://note.com/saita_media
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