第89回 多賀麻希(29)世渡り上手の駆け引き構文
「ひまわりを見たんだよね」とモリゾウが言った。
「ひまわり」といえば、麻希の布雑貨作品のひまわりバッグのことだ。強気の6万円の値をつけてオンラインショップに出したら、その日のうちに値下げ交渉されずに売れた。
「バッグを持ってる人を見たってこと?」
「持ってる写真」
「どこで?」
「電車で隣の人が見てたスマホに出てた」
ひまわりバッグは一つしか作っていない。その写真がたまたまモリゾウの目に留まるなんて偶然があるのだろうか。
そう思いつつ麻希はデジャヴを覚える。モリゾウが動画配信サービスで英語講師をしていることを知ったのは、電車で隣の人が見ていたスマホの中にモリゾウを見つけたからだった。
「あ、伸びてる」
モリゾウの足の爪が伸びてるのに気づいて、麻希は爪切りを取って来る。
「切ってあげる」
「自分でやるよ」
「切らせて」
「あげる」と言って相手に遠慮されたら「させて」を使えというのもケイティに教わった。「あげる」だと恩着せがましくなるところを、「させて」とあえて自分から下手(したて)に出ることで、相手の気持ちをラクにさせてあげるのだという。その辺の匙加減がケイティは天才的にうまかった。
「じゃあお願い」
麻希が爪を切りやすいように、モリゾウがつま先を床から浮かせ、指を天井に向ける。「あげて」を「させて」に変えたら、素直に任せてもらえた。
ケイティ構文、使える。
チョキン。チョキン。
「夜に爪切りっていいんだっけ」
「朝のほうがいいっていうけど」
「なんでだろね」
「泥棒が来るとか言わなかった?」
チョキン。チョキン。
「マキマキ、明日入ってる?」
「9時5時」
一緒にいる時間が長くなるとセリフが短くなるんだとツカサ君が言っていたのを麻希は思い出す。説明しなくても通じる言葉がふえるからだ。
「入ってる」といえば新宿三丁目のカフェのバイトのことだし、「出しといて」といえば燃えるゴミのことだし、「洗っといて」といえば風呂のことだ。ふたりだけにしか通じない内輪語のボキャブラリーもふえている。「ポカってる」といえば、りんごの味がボケてしまっていることだし、「何シュー行く?」は、ごほうびの単位であるシュークリームの個数で喜びの大きさを表すときに使う。
爪を切り終えると、モリゾウの首に腕を巻きつけて、麻希からキスをした。
「何?」とモリゾウが聞く。
「爪切り完了の挨拶」と麻希は答える。
今度はモリゾウからキスをする。
「何?」と麻希が聞く。
「お礼の挨拶」とモリゾウが答える。
「おしゃべりしない?」
「いいよ」
「おしゃべり」は、麻希とモリゾウの間では、体を重ねることを指す。
欲しいものは欲しいと言うことにした。ケイティがそうだった。そこにもコツがあって、「したい」と言う代わりに、「しない?」と誘う。ケイティが言うには、「したい」だと相手に希望を叶えてもらうので上下の関係になってしまうけれど、「しない?」だと共犯になる。「嫉妬してくれてるの?」と同じく、ちょっとした言い回しの違いで自分を上げられるのだ。
モリゾウの大きな手が麻希のシャツの裾から中に滑り込む。麻希も手を滑り込ませる。
お互いの体を撫でながら最近あった出来事を話す。おしゃべりの伴奏に、楽器を爪弾くみたいに指を動かす。おしゃべりより演奏が乗ってくると指の動きが速くなるし、おしゃべりが盛り上がると指が止まる。
体を交えるとは限らない。山のてっぺんを目指す日もあれば、ふもとを散策するだけの日もある。
飲み会の帰りに麻希をタクシーで送り届け、ひとり暮らしの部屋に当たり前のようについて来て、飲んだ後のラーメンみたいなノリで、麻希の体を求めてきた男たちのことを思い出す。「何か言って」と甘えても、欲しい言葉は返ってこなかった。「黙ってろ」と叱られたこともあった。今思えば、下半身に興奮を送り込むことに躍起になって、余裕がなかったのだろう。
小さいヤツらめ。
「マキマキ、笑ってる?」
「ちょっとね。思い出し笑い」
そのまま披露できるような内容ではないので、「昔のことって、時間が経つと笑い話になるよね」と少しずらしてみる。
「チャップリンみたいな?」
「みたいな」
《人生はクローズアップで見ると悲劇だけど、ロングショットで見ると喜劇だ》とチャップリンが言ったのだと麻希に教えてくれたのもモリゾウだ。
「見間違いじゃないと思うんだよね。似たようなデザインって、なくない?」
麻希のおへそのまわりを人差し指でくるくるとなぞりながらモリゾウがひまわりの話を続ける。クレヨンでひまわりの花を描くみたいな動きだが、偶然だろう。古墳好きなモリゾウはこのところ麻希のおへそとそのまわりの高低差に萌えている。
「バッグ持ってる写真って、インスタか何か?」
「ネットニュースだったかも」
「ニュース?」
バッグの購入者は、ニュースになるような有名人だったのだろうか。モデルとか、インスタ映え狙いのインフルエンサーとか。だとしたら、6万円のバッグをポンと買えたのもうなずける。
「あー、やっぱり気になる」
おしゃべりを中断して、モリゾウが麻希から体を離し、パソコンを開く。麻希もモリゾウの肩越しに画面を覗き込む。今日のネットニュースの一覧のサムネイル画像が並んでいる。その中の一枚に目が留まった。
「あっ」
ふたりの声が重なった。
トリミングされて全体は写っていないが、ひまわりの茎を模した黄緑色の持ち手と黄色いフリルの花びらの一部がはっきりと見える。
「ほらやっぱり、ひまわりだよね?」
モリゾウが声を弾ませる。
だが、麻希の目はバッグではなく、その持ち主に釘づけになっていた。
華やかなオレンジのコートをまとい、形のいい爪を黄色いネイルで彩り、アイラインをくっきり引いて頬にも唇にも鮮やかな色をのせたメリハリメイク。ひまわりバッグに負けないくらいゴージャスな彼女を知っている。
専門学校時代から体型も服の趣味もメイクも別人みたいに変わっているのに、一目で彼女だとわかった。勝ち気な笑みを浮かべた口元が「覚えてくれてたの?」と言いそうな形をしていた。
「ケイティ……」
次の物語、連載小説『漂うわたし』第90回 多賀麻希(30)「まわりまわってひまわりバッグ」へ。
編集部note:https://note.com/saita_media
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