第100回 伊澤直美(34)自分の機嫌は自分で取る!
「孝雄、無邪気に食べたんだ?」
「はい」
「でも、おいしいよね」
「おいしいんですよ。困ったことに」
一人で訪ねて来た亜子姉さんにレモンケーキを出して、一緒に食べている。昨日、母に呼ばれたイザオが優亜を連れて直美の実家に行き、お土産に持たされたレモンケーキだ。
「ケーキ焼く人なんだ? 直美ちゃんのお母さん」
「出入りしてる彩子さんって人が焼いてるんです。母も手伝ってるかもしれませんけど」
直美の実家を訪ねたあの日、優亜を抱いて散歩に出かけたイザオは、道でばったり会った母とともに帰って来て、レモンケーキをおいしそうに食べた。優亜には酸っぱすぎるだろうと思ったのに、優亜も食べた。
母が育てたレモンで作ったケーキを口にしたら、これまでのことをなかったことにしてしまいそうで、意地でも口にするものかと思ったのに、「せっかく作ったんだから」と彩子さんに言われたら、食べないわけにはいかなかった。割り切れない思いで口に入れたレモンケーキは思いがけずおいしく、「もうひと切れどう?」と彩子さんに勧められた直美は、それも食べてしまった。
「良かったって言っていいのかな。記憶のことは心配だけど」と亜子姉さんが言った。
「そうですね。これで良かったんだと思います」
そう言いつつ、気持ちの引っかかりが言葉に出ている。都合の悪い過去の記憶が都合良く消えていた母。それに屈託なく乗っかるイザオ。優亜が潤滑油になって、錆びついていた関係が回り出した。
わたし抜きに。
子どもの頃、遊園地で乗ったメリーゴーランドが頭の中で回っている。
直美が乗った馬は、なぜか動かなかった。上下するはずなのに、じっとしていた。まわりの馬や馬車が上下するのに合わせて、乗っている子たちの笑顔も上下した。自分の馬だけが動かなくて、取り残されたような気がして、どんどん悲しくなった。みんなの馬も止まればいいのに。そしたらひとりぼっちじゃなくなるのに。そんなことを願い、でも本当にそうなったら困ると焦り、わたしはなんて意地悪で自分勝手な子なんだろうと反省し、今年はサンタさんが来てくれないかもしれないと心配になった。上下しない馬の上で感情は激しく上下し、子どもだった直美はパニックで泣き出した。
「わかる」と亜子姉さんが言い、続けた。
「学祭でさ、お化け屋敷やったんだよね。装置が大がかりで撤収するのに時間かかって、打ち上げの店予約しちゃってたから、先行ける人に行ってもらったの。私が着いたのいちばん最後だったんだけど、テーブルの上、なんもなくて、空いたお皿だけ並んでて。私の分、取り分けてくれてたのかなって思ったんだけど、それもなくて。そのときに、なんか食べる?って言われたんだよね。ひどくない? 食べるに決まってるじゃん! だってさ、自分の勝手で遅れたんじゃなくて、みんなのために働いてたわけじゃない? 私が片づけてる間、私のこと忘れて飲んでたんだって思ったらやりきれなくて、帰ったの。バイト入れてたの忘れてたって言って。どうしちゃったのって誰かがメールか電話かしてくるかなって思ったんだけど、誰からも連絡なくて。ケータイが鳴るの待ってる時間がきつくて、それで」
ほとばしるようにしゃべっていた亜子姉さんは、そこで言葉を区切った。
「それで、どうしたんですか?」
「絵を描いたの」
相槌のつもりで「絵?」と返すと、亜子姉さんは直美が聞き取れなかったのだと思った様子で、「絵を描いたの」ともう一度言った。
怒って帰って絵を描くところが美大生だなと直美は思い、壁に飾った絵に目をやる。干支のうさぎ。年賀状用に亜子姉さんに描いてもらったものだ。
「そのとき描いたのは、部屋の窓から見える景色でさ。遠近感あるやつ。それで思ったの。私の大きさは変わらないけど、私が思ってる私と、みんなから見えてる私はサイズが違うんだって。私のサイズっていうか、私の頑張りとか、私の気遣いとか。わかる?」
「わかります」
直美の言いたかったことと亜子姉さんの言いたいことは重なっているようで違うことを言っている気もするが、そういうことってあるよねとうなずき合えたらそれでいい。こんな話を誰かとしたかっただけなのだと直美は思う。
「結局、自分の機嫌は自分で取るしかないんだよね」
亜子姉さんはそう言うと、「直美ちゃん、童話ってどうなったんだっけ?」と唐突に聞いた。
「ほら、コンクールに応募してたよね? 『鏡っ子ゆあちゃん』の話」
「ああ、あれ。もう発表終わってますよね。ダメだったんじゃないかな」
結果なんて気にしてなかったという口ぶりで答えたが、一次審査通過者の氏名が発表された主催者サイトのページを何度も見返した。直美の中学入試の合格発表で、あるはずの番号がなかったのが信じられず、何度も視線を往復させた母顔負けの熱心さで。
一次は通ると思っていたが、一次も通らなかった。
「他にもコンクール色々あるし、またなんか書いてみたら?」
「でも、向いてないかも」
「書いてるのが楽しかったら、それでいいの。評価はオマケみたいなものだから」
「そう言えば、創作は埋め合わせだって、前に亜子姉さん言ってましたよね」
「そう。自分の機嫌を取れたら、それで良し。誰かが喜んでくれたら、なお良し。最新作見る?」
直美の返事を待たずに亜子姉さんがスマホの写真を開いた。
「また描いちゃった」
直美はもうひとつ、気の重い問題を思い出す。亜子姉さんに頼まれて、代わりに買ったバッグのこと。絵のギャラが入った亜子姉さんが自分へのご褒美に6万円もするバッグを買ったのだが、ダンナさんに見つかると何を言われるかわからないということで、直美が代理で購入し、受け取った。今もバッグはうちにあり、亜子姉さんが会いに来る。手元にあると家族の目につくし、すぐ手に届くところにない距離感がいいのだと言う。
ひまわりバッグを持って亜子姉さんが出かけたことはまだない。よそ行きの服がもったいなくて袖を通せないように。
亜子姉さんは偶然ひまわりバッグを見つけ、一目惚れした。オンラインショップで絵を売ろうとして、初めて訪れたサイトで他の作家の作品を見ていたときに。ひまわりは亜子姉さんにとって思い出深いモチーフだけど、これまではあまり描いてこなかった。そのバッグに出会ってから、ひまわりの絵が一気にふえた。ひまわりバッグは亜子姉さんに力を授けてくれる神聖なもので、その価値を亜子姉さんは信じている。
その信頼が揺らぐようなことはあってはならない。
亜子姉さんはまだ知らない。ケイティというインフルエンサーの手がけるブランドが、亜子姉さんのひまわりバッグとよく似たバッグを売り出したことを。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第101回 多賀麻希(33)「エゴサしたって傷つくだけなのに」へ。
編集部note:https://note.com/saita_media
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