第146回 佐藤千佳子(50)ペディキュアがはみ出すほど恋してる
「あっ」
スマホの向こうで野間さんが短い悲鳴を上げた。
「大丈夫ですか?」
「はみ出しちゃった」
はみ出した?
野間さんの輪から自分がはみ出しているような淋しさを覚えていたのを見透かされたようで千佳子はドキッとする。
「何がはみ出したんですか?」
「ちょっとね。ペディキュア」
一瞬考え、「検索?」となった。それはウィキペディア。ペディキュアは足の爪に塗るやつだ。
「野間さん、今、ペディキュア塗ってるんですか?」
「そう。これからデートなの」
野間さんが「デート」と言うたび、そわそわしてしまう。オランダでは「ちょっと買い物へ」というくらいカジュアルなことなのだろうか。
「しゃべりながらだと集中できないですよね」
「集中してても下手だから。老眼で手元にピント合わないし、久しぶりでブレブレ」
語尾が弾んでいる。春が待てない人の声だ。
野間さんの浮き立つ気持ちを受け止めるには、爪が小さすぎるのだ。
塗り絵の線からはみ出して色を塗っていた幼い日の文香を千佳子は思い浮かべる。クレヨンを走らせることがうれしくて、勢い余って塗り絵の紙さえはみ出していた。
日本からはみ出した野間さんは、何もかもはみ出している。仕事も、恋も、若返ったような声も。
野間さんに比べたら、なんてちっぽけでつまらない毎日を生きているのだろうと卑屈な気持ちになってくる。日が傾いて室内は急に暗くなり、壁もカーテンもくすんで見える。
スーパーマルフルでパートを始め、野間さんに出会った頃、彩りのパセリに自分を重ねていた。主役になれない。つけ合わせにもなれない。あっても邪魔にならず、なくても困らない。みんながいなくなった後、隅っこに取り残されて乾いていくパセリ。
野間さんと同僚になり、パセリの花束を一緒に束ね、そのリボンに自分もくるまれている気持ちになっていた。
野間さんが抜けてリボンをほどかれた今の自分は、袋から放り出されたハダカのパセリだ。
リボンを巻いてくれる人がいなくなったら、パセリは、ただのパセリ。魔法が解けて、夢を見ていたことに気づかされる。
元々違う世界の人だった野間さんは、たまたま一時期、同じ世界に降りてきていただけだったのだ。引き算しても空しくなるだけだとわかっているのに、野間さんとの差を数えてしまう。
この現象に名前をつけるとしたら?
いじけたパセリ。
「あれ? 佐藤さん聞こえてる?」
千佳子が押し黙っていると、アムステルダムの野間さんがスマホの向こうから声をかけた。
「聞こえてますよ」
「良かった。声が遠くなったのかと思った」
声は近いですけど、野間さんが遠いです。
心の呟きが口からこぼれ出て、「何それ?」と野間さんが笑った。
「野間さん、人生にますますハリが出てきたっていうか、すっかり若返っちゃって。わたしのほうが歳上みたい。もう、シットしちゃいます」
わざと明るく言った。
「それ、顔見てないからだよ。ビデオ通話にする?」
「そういうことじゃなくて。今のわたしが持っていないもの、野間さんが全部持ってるなって」
「何言ってんの。佐藤さんはわたしが持ってないもの持ってるじゃない? ダンナさんもいるし、文香ちゃんもいるし」
「野間さんだって息子さんがいるじゃないですか
「二人とも家族がいるし」
そうか。野間さんはひとりなのか。
そのことを忘れていた。
ひとりきりだからどこにでも行けて、ひとりきりだから居場所がなくて。
「アムステルダムに来て仕事を見つけて、彼に出会って、こっちに居続ける理由ができたってだけ。私は私、佐藤さんは佐藤さんだよ」
「なんか、前にもこんな会話しましたね」
「したよね」
「彼とチューリップを取りに行った話、したじゃない?」
スマホの向こうで爪に春を呼んでいる野間さんが言った。20万本のチューリップを配るイベントに野間さんと恋人はデートで出かけたのだった。
「列が長くて、彼がコーヒーを買いに行ってくれたんだけど、飲み終わる前に冷めちゃうくらい寒くて。30分くらい待ったかな。そしたら、私たちの前でチューリップが終わっちゃったの」
「じゃあ、もらえなかったんですか?」
「そう。寒かったのにって私が悔しがったら、彼が言ったの。ポケットの中はあったかかったねって」
「ポケットの中?」
「コーヒーが冷めちゃって、手がかじかんで、彼のコートのポケットに手を入れたの。それで、彼の手もポケットに来て……」
ポケットの中で初めて触れた手と手のことを、野間さんがたった今起こった出来事のように話す。最初は冷たかったお互いの手を温め合った時間。
アムステルダムの寒空の下、ポケットの中で手をつなぐ野間さんと恋人を千佳子は想像する。長いコートを着た背の高い恋人のシルエットがパセリ先生の公演ポスターのビジュアルの男性になる。そのポケットに千佳子は手をしのばせる。
「私は、チューリップもらえなかったーってなってたんだけど、この人は逃したものを嘆くんじゃなくて、手の中にあるものを喜べる人なんだなって」
野間さんは一気に話して、「ただのノロケだね」と笑った。
「ただのノロケですね」と千佳子も笑う。
「ごめん。私ばっかりしゃべっちゃって。日本語でこういう話できる人、まわりにいなくて。恋って、始まるときがいちばん楽しいじゃない?」
「わかります」と千佳子は相槌を打ちつつ、「そうだったっけ」と忘却の彼方にある恋の欠片をかき集め、経験が少ない上に薄いことを改めて自覚する。
なにせ夢の中でもキスしそびれているくらいだ。恋愛下手にもほどがある。
最後にペディキュアを塗ったの、いつだったっけ。
記憶を辿るが、思い出せない。ペディキュアを塗るときは、これが最後だなんて思っていないから。いつの間にかペディキュアは人生からはみ出してしまっていた。
夫とのデートの前にペディキュアを塗ったりしていただろうか。それも思い出せない。今、ペディキュアを塗ったら、夫は気づくだろうか。文香は気づくかもしれない。でも、この季節は家の中でタイツか靴下を履いている。裸足になるのはお風呂と寝るときぐらいだ。
そこまで考えて、気づいた。
野間さんは、恋人の前で裸足になる予定があるのだ。
あちらでは家の中でも靴を履いているのではなかったか。靴を脱いでタイツだか靴下だかを脱いで裸足になってペディキュアを見せるのは、それだけ野間さんと恋人の仲が進んでいるということだ。
この間、手をつないだばかりなのに?
久しぶりにペディキュアを塗っているということは、今日初めてそういうことなるのだろうか。
裸足になる予定も予感もなくて、だけど恋人に見せない足の爪まできれいにしていたいのだろうか。
爪の先まで春が待てなくて、春を呼んでいるのだろうか。
その気持ちのひとつひとつが、わたしからはがれ落ちて、どこかに置いてきたものだと千佳子はあらためて今の自分と野間さんの距離を思う。
「ペディキュアがはみ出すほど恋してるんですね」
「そういうタイトルのロマンティック・コメディ、なかった?」
あったかもしれない。映画だったか、歌だったか。
女優が演じる映画の中の出来事じゃなくて、野間さんの現実に起きているのがすごいんですよと千佳子は言おうとしたけれど、言わなかった。これ以上野間さんを浮かれさせるのは、なんだか悔しかった。
次回2月17日に多賀麻希(49)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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