第135回 伊澤直美(45)会える確率は1分の1
「子どもたち連れてどっか行ってくれって言われちゃって」
日曜の朝、直美が洗濯を干しているところにイザオの姉の亜子姉さんが幸太と結衣ちゃんを連れてやって来た。ダンナさんの資格試験勉強の邪魔らしい。ダンナさん一人が出かければいいのではと直美は思う。もちろん亜子姉さんも思っているだろう。
「じゃあ赤組白組で」とイザオが幸太を遊びに連れ出し、母娘2組が家に残った。同期入社の女子だけで出かけることを「赤組」、男子だけで出かけることを「白組」と呼んでいるのが夫婦の間でも共通語になっている。
「結衣ちゃん、大きくなったねえ」
毎日見ている自分の子の成長は折れ線グラフだが、時間が飛ぶ姪っ子は棒グラフだ。結衣ちゃんは優亜の半年前に生まれていて、結衣ちゃんと優亜が会うのは半年ぶりだから、前回会ったときの結衣ちゃんが今の優亜と同じ1歳9か月だったことになる。
「優亜も。『鏡っ子ゆあちゃん』のときは、まだハイハイしてたもんね」
懐かしいタイトルが亜子姉さんの口から飛び出し、直美は顔が赤くなる。童話賞に応募したのは去年の夏の始めだ。あの頃は今よりもあたふたしていた。子育てと仕事の両立に悩み、だからこそ童話を書くという非日常な営みに救われた。
「あれどうなったんだっけ?」
「どうかなってたら亜子姉さんに知らせてますって」
冗談めかして明るく言おうとしたら、力が入り過ぎて声が大きくなった。1年経ってもまだ悔しいのだ。受賞を逃したことが。
直美の作品は1次審査も通過しなかった。
受賞したらプロのイラストレーターが絵をつけ、書籍化されることになっていた。書店の子ども本コーナーに平積みされている表紙が直美には見えていたのだが。
「じゃあ私が絵を描こっか」
「そっか。亜子姉さんもプロのイラストレーターだった」
「そうだよー。私が絵描いて、自費出版すればいいじゃん」
賞を取って華々しく童話作家デビューするつもりだった直美は、プライドも手伝って行き止まりの札を自ら立ててしまったが、亜子姉さんはこっちからも行けるよと別なルートを屈託なく指差す。
「亜子姉さんって代案力高いよね」
「どういうこと?」
「はい次って、切り替えが早いなって」
「あー。子育てでダメ出しされまくってるからね」
亜子姉さんはカラッと明るく言う。直美の作る明るさと違って、力みがない。ダンナさんの気まぐれで家を出された今も、「こんなはずじゃなかった」と嘆いたりしない。出たとこ勝負を楽しむのが亜子姉さんの平常運転だ。
幸太が生まれたときから亜子姉さんの子育ては思い通りに運ばないことの連続だった。幸太は音の刺激に敏感で、小さい頃は特に大変だった。人が大勢いるところに行くと、耳を塞いだり自分の声でかき消そうとしたりして、それが周りの人との軋轢を生んだ。歳とともに少しずつ折り合いをつける方法を見つけているが、今も日によって調子に波がある。
「亜子姉さんに言いたいことあったんだ。makimakimorizoつながりで面白いことがあって」
「マキマキモリゾウって何だっけ?」
「ひまわりバッグの」
「ああ」
亜子姉さんがブランド名を忘れていたことに驚く。バッグは直美に預けっ放しだし、ブランド名も覚えていない。思い入れがないのだろうか。6万円も出したのに。
「電車の中でチューリップのバッグ持ってる人がいて、パッと見て、同じ作者だって思って。その人、前に会ったことある人だったの」
取引先のスーパーに紹介してもらい、オンラインで消費者インタビューさせてもらった一人だった。そのときは浮いているような真っ赤な口紅が印象に残ったが、電車で会ったときも赤のチューリップバッグが鮮烈だった。
「もしかして、パセリの人?」
「亜子姉さんにその人のこと、話したっけ?」
「何言ってんの? 実家でうちの母に月刊ウーマン見せてもらって、私、感想文代わりに描いたじゃない、パセリ。あの絵、直美ちゃんが持ってるはずだよ」
話を聞いているうちにレゲエのレコードジャケットみたいなパセリがムクムクと頭の中で蘇り、「うわあああ」と声が出た。あのときは直美が家を飛び出して、亜子姉さんに慰められた。お土産に持ち帰ったパセリの絵、どこにやったっけ。
「どうせどっかにやっちゃったんでしょ。額に入れて飾っとけとは言わないけど」と亜子姉さんが苦笑する。
どこにあるかは今すぐ思い出せないけど、パセリの絵のことは完全に思い出した。
「そういや私、もう一枚描いて、パセリの人に贈ろうかなって思ったんだった」
「そうなの?」
「でも、すっかり忘れてた。今さら贈られてもびっくりしちゃうね。何年もののパセリ?」
結衣ちゃんが亜子姉さんのお腹にいた頃だから、3年前だ。
「あーでも、わたしが月刊ウーマンに載ったこと、その人知らないと思う」
「直美ちゃん、パセリの人に掲載誌送ってないの?」
「インタビューのために入手した個人情報を個人的な連絡に使っちゃいけないかなって……」
「取材の後日談なんだから業務報告でしょ。その人がパートしてたスーパーあてに送れば良かったじゃん。掲載誌は送ってナンボよ」
亜子姉さんは広告業界にいた人らしい事を言う。そんなこと思いつかなかった。
「案外、直美ちゃんの記事をたまたま見つけて読んでて、向こうも今頃直美ちゃんのこと思い出してるかもよ」
「たまたま……あるのかな、そんなこと。電車でたまたま会ったのもすごい偶然だしね」
「直美ちゃん、会うべき人に会える確率は1分の1だよ」
「1分の1?」と直美は思わず聞き返した。
「直美ちゃんの同期のタヌキだっけ、結婚した子、あの子だってそうでしょ」
タヌキの話は以前亜子姉さんにしていた。直美が見せたひまわりバッグの写真を見て、タヌキは高校時代に何度も観た映画『幸せのしっぽ』の衣装を思い出し、同じ作者だと直感した。その作者に会いに行き、ウェディングドレスのリフォームをお願いした。
遅かれ早かれ巡り会えていたのかもしれない。でも、あのタイミングだったから結婚パーティーに間に合った。亜子姉さんがひまわりバッグに出会ってなかったら、タヌキのウェディングドレスにクローバーは広がらなかった。
散歩がてらおやつを買いに行こうとなり、亜子姉さんが「あれ持っていこ」と言った。
ひまわりバッグのことだとわかった。
チューリップバッグが目印になってパセリの花束の人と直美をつなげたように、ひまわりバッグが確率1分の1の誰かの目に留まるかもしれない。
不織布の袋から取り出したひまわりバッグから詰め物の紙を取り出し、代わりに財布とエコバッグを入れ、親子2組で近所のスーパーへ向かった。
通りがかった美容院のガラス戸に映った自分の姿を見て、愕然となった。
量販店のトレーナーとパンツ。気の抜けきった休日の部屋着のまま出てきてしまったが、このバッグにこのコーディネートは、ない。6万円のバッグが安物に見える。値段は安いほうに引っ張られるのだ。
「個性的なバッグって、着るものを選ぶんだった……」
亜子姉さんが持ってとバッグを差し出したが、亜子姉さんが持っても、しっくりしない。手描きの花を描いたワンピースとひまわりバッグが主張し合い、消化不良を起こしている。
「個性ってケンカするんだよね」と亜子姉さんが言い、「そもそも、ひまわりの季節終わってたね」と続けた。
夏のチューリップバッグは季節外れだと感じなかったが、秋のひまわりには夏の名残にしがみついている未練がましさを感じてしまう。
「こういうときは、子どもに持たせてみるに限る」
亜子姉さんがそう言って、「ユイユア、持ってみる?」とふたりまとめて呼びかけ、バッグを差し出した。どちらかに持たせるとケンカになりそうなので、ふたりで持たせようということらしい。結衣ちゃんと優亜が持ち手に腕を通し、ふたりでバッグを持つ格好になった。
「おお、いいじゃん」
「子どもは季節を超えるね」
「価格も超える」
「すごい。子どもは何でも超えちゃう」
亜子姉さんとかわるがわる感嘆の声を上げ、笑い合った。
何がおかしいのかと優亜も結衣ちゃんもきょとんとしている。直美だってよくわからない。子育てしていると、時々変なスイッチが入って、笑い出したら止まらなくなることがある。出口を求めている感情が笑いに姿を変えて出て行くのかもしれない。その証拠に、あーおかしかったと目尻の涙をぬぐうときは毒が抜けたようなスッキリ感がある。
ここで確率1分の1の人が話しかけてきたら上出来だったが、笑い転げる母親ふたりに近づく人はいなかった。「子どもにはかなわない」「まいった」と笑い合いながら、今この瞬間が出会うべき1分の1なのかもしれないと直美は思った。
次回11月4日に伊澤直美(46)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
みなさまからの「フォロー」「スキ」お待ちしています!