第143回 多賀麻希(47)幸せだから引っ越したくない
アパートの家賃が次の更新で2割上がることを麻希が口にすると、
「地上げやったら任しとき!」
とカウンターの中でマスターは突然勢いづいた。
年内最後の営業を終えた夜のことだった。普段は出しっぱなしの「焙煎珈琲 然」の一枚木看板をしまい、カウンター席で仕事納めのコーヒーを出してもらっていた。
「マスター、地上げじゃなくて値上げですよ」
「そんだけ上げる、いうことは、立ち退かせたい、いうことや」
そうかもしれないとモリゾウとも話していた。建物はずいぶん老朽化しているし、「入居者募集」の札が出たままの部屋もある。物件の価値が下がっているのに値上げをするというのは、出て行ってくれということなのだろうと。
「こういうのは相続が絡んでるんや。土地やと子どもらで分けにくいから、早いとこ更地にして金に替えたいんや」
マスターの中で立ち退き話が膨らみ、大家さんの子どもたちが登場する。
大家さんの家族について、麻希は考えたこともなかった。入居の手続きは不動産屋を通してだし、更新の手続きは郵送と振り込みで行なっている。契約書には大家さんの氏名が記されているはずだが、年齢も性別も知らない。
「そのうち立ち退きの話、出るんとちゃうか。引っ越し代と転居先の敷金礼金、あと家賃を何か月分出してもらえるか、やな。引っ越しで新しい家具やらも必要になるやろ?」
どんどん生き生きしてくるマスターを見て、ある人の顔が思い浮かんだ。
「今のマスター、社長そっくり」
「どこの社長?」
「ここで働いてたときの」
麻希は天井を指差した。社会人になって最初に勤めた映画製作プロダクションが2つ上のフロアに入っていた。当時、1階には「モニカ」という名の喫茶店が入っていた。
社長は、もめごとになると「出るとこ出たる!」と息巻いた。就職したばかりの麻希は、裁判沙汰になるような会社なのかと驚き、負けたら裁判費用はどうするのだろうと気を揉んだが、「出るとこ出たる!」は社長の掛け声のようなものだとわかった。
「ピンチになると張り切る人だったんです」
「今、僕、張り切ってた?」
「はい。社長が乗り移ってるみたいでした」
「マキマキとモリゾウやと、ええように言いくるめられてまいそうやん? 立ち退きの話になったら、言うて。大阪の叔父いうことにして、代わりに交渉したる」
マスターが張り切っているので言い出し辛かったが、
「引っ越しは考えてないんです」と麻希が告げると、
「なんやそら?」とマスターはわかりやすく脱力した。
「値上げされても住み続けたいし、お金を積まれても動きたくないなって」
「けど、2割やで? 2割上げたら、もっとええ部屋住めるんちゃう?」
「今の部屋がいいんです」
しばらくの沈黙を置いて、マスターが言った。
「マキマキ、幸せなんやな」
「そういうこと、ですかね」
コーヒーを飲み終えて麻希は言った。
「何よりや。ごちそうさん」
マスターから社長が抜け、いつもの力の抜けた口調に戻っていた。穏やかな声に、お祭りが中止になったような、しょんぼりが混じっていた。
いつも自分で騒ぎを大きくしていた社長は、本当に大変なときは何も言わず、姿を消してしまった。麻希を含めて4人いた社員の給料は、3か月にわたって未払いになっていた。夜逃げした後に届いたメールには《いつか払う!》と書かれていた。本心かどうかはわからないが、本人からだとわかった。《明日よろしく!》《現地集合!》と社長のメールの文面は、いつも「。」が「!」になっていたから。
社長がどこかで図太く生きていてくれたらと思ったのは、年越しの季節のせいもあったかもしれない。
その日、部屋に帰ると、モリゾウとシュークリームが待っていた。
「何のご褒美?」と聞くと、
「仕事納めだから」と言われた。
「幸せなんやな」とマスターに言われたことを思い出した。
コンビニのシュークリームのささやかさと柔らかさが、今の幸せを表しているように思った。
幸せで満たされているから、ではなく。
幸せな記憶がたくさんあるから、でもなく。
この部屋を離れたくないのは、今の幸せを壊したくないから。
積み上げてきたものがバランスを崩し、そこから何かが抜け落ちてしまうことを恐れている。
「食べる?」と差し出されたシュークリームを受け取り、かじる。
引っ越しは、逃げる手段だった。
追い立てられて、追い詰められて、するものだった。
熊本にいられなくなって東京に出てきたときも、これまでを断ち切るために前の部屋を引き払ったときも、そうだった。
けれど、もう逃げる必要はない。
「どこにも行かないで」と言ってくれる人に出会えたから。
どこにも行かない、行かなくていい。やっと、そう思えるようになった。
だから、もう引っ越す必要はない。
手の中でシュークリームが軽くなっていく。
「引っ越そうか?」
麻希が考えていることと逆のことを、隣でシュークリームを食べている彼が言った。
その言い方にデジャヴを覚えた。
「結婚しようか?」
あのときと同じ、さりげなさだった。突然思いついたわけではなく、リボンをかけて懐に忍ばせてあったプレゼントを差し出すような感じ。差し伸べられた手を取るように、何も考えずに受け取らせてしまうやり方。
「引っ越す?」
聞き返した声がすでにイエスのニュアンスになっていて、ブレーキを緩めるきっかけを待っていたんだと気づいた。
「もう少し、広い部屋にさ」
「自分の部屋が欲しいの?」
「うちが広くなったらモリゾウが遠くなっちゃう」と冗談めかしてすねてみた。初めて同棲する20代の小娘みたいなことを咄嗟に考えてしまったことに呆れて、あえて口にして茶化した。
42歳にもなってこんな気持ちになるなんて。というか、この歳までこんな気持ちを知らずに来たのだ。過去に履修して来なかった恋愛感情論を今頃やっている。
「マキマキのアトリエがあったらいいなって」
「アトリエ?」
「作ってる場所で打ち合わせできたら、いいかなって」
蕾が開くように、頭の中でアトリエのイメージが広がった。
大きな窓。芝生のラグ。刺繍の入ったクッション。
そうだった。この人の幸せのハードルはとても低い。電気が通っているだけで満足する人なのだ。今の部屋で十分広いし、何の不足もないけれど、もし今より広い部屋に引っ越すなら、彼がそこに求めるのは自分の空間ではない。
アトリエを持つ。
考えたこともなかったけれど、頭の中に広がるイメージは具体的で、前から温めていた夢のようだった。
追われる引っ越しもあるけど、追いかける引っ越しもある……。
頭に浮かんだ言葉を舞台のセリフみたいだなと思ったが、口には出さず、手前にとどめたまま唇をモリゾウに押し当てると、ひんやりしていた。シュークリームの冷たさが残っている。
「ん?」とモリゾウが麻希を見る。
「ん」と麻希はさっきより長めに唇を押しつける。
それが、「引っ越そっか?」への返事。
どちらからともなく唇が開き、口の中でクリームの名残が混ざり合い、溶け合う。
これ、初めてキスした日に食べたシュークリームだと気づいた。
あの日の真夜中、麻希の捨て身の自己開示をぶつけられて部屋を飛び出し、なかなか戻って来なかったモリゾウは、シュークリームを探し回っていたのだった。キスをしていたら夜が明けて、ちゃぶ台の上に置かれたシュークリームに朝日が当たっていた。武田唯人というモリゾウの本名を確かめてから、シュークリームを食べ、クリームを交わし合い、気持ちと体温を確かめ合った。
あのときのシュークリームをモリゾウは覚えていて、同じものを買ってきたのだろうか。たまたまだろうか。それとも今、思い出しているのだろうか。
瞼の裏でアトリエの大きな窓から光が降り注いでいた。
次回1月13日に多賀麻希(48)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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