第149回 多賀麻希(49)やがて住む部屋の前で
「買おっか」
パソコンで開いた不動産サイトを見ながら、モリゾウが言った。何千万円もする買い物を、電化製品を買うノリで。
「買えるの?」
「もちろんローンで」
家賃を払い続けるより、同じ金額をローンの返済に充ててはどうかとモリゾウは考えたのだった。
自分たちの、家を買う。
ありかも。
賃貸で探していたのを分譲に切り替えると、手が届かなかった広さや駅近の物件が引っかかるようになった。
そして、ついに理想的な部屋に出会った。
一階の角部屋だが、道路に面した庭がついている。不動産サイトに載っている写真では、庭に光が降り注ぎ、リビングの奥まで射し込んでいた。
思い描いていたアトリエをそのまま現実にしたような立地と間取りだった。
築年数は30年経っているが、住戸数は38あり、月々の管理費と修繕積立金は築年数の割には膨らんでいない。部屋はリフォーム済みで水回りは新品に取り替え、床と作りつけの棚は無垢の天然材を使っている。最寄り駅は荻窪の隣駅の西荻窪。新宿からひと駅離れ、駅からの距離も2分ほど遠くなるが、広さは2 倍になる。
30年ローンで月々の支払い額をシミュレーションすると、今の家賃とほぼ同額になった。管理費と修繕積立金を足すと、次回更新で2割高くなる家賃よりも高くなるが、払った分だけ部屋が自分たちのものになるのだと思えば、無理できる金額だ。
サイトにあるフォームから問い合わせをすると、すぐに折り返しの電話があった。最短の日程で2日後の内見を予約したが、待ちきれず、散歩がてら物件を外から見に行くことにした。
荻窪駅と西荻窪駅の直線距離は歩いて30分足らずだが、今のアパートと次の部屋候補のマンションは直線距離を外れた場所にあり、歩くと45分ほどかかった。
春が来ていると感じさせる陽気で、風もなく、歩くにつれて体がほどよく温まり、どこまでも歩けそうだった。浮き立つ気持ちが足取りを軽くしていたのかもしれない。
目当ての1階の部屋は、すでに前の住人が引っ越した後で、サッシ戸にカーテンはなく、生垣も麻希の目線より低いので、家の中が見渡せた。不動産サイトで見た写真と同じようにリビングの奥まで陽が射し込んでいた。
「アトリエは、やっぱりそこ?」
モリゾウが庭に面したリビングを指差した。
「うん。でも、食事する部屋と一緒になっちゃうか」
「キッチンカウンターの天板を手前に伸ばして、カウンターで並んで食事する? そのほうが部屋もすっきりするし」
「それいいかも」
傍から見たら空き巣の下見に見えてしまうかもと思い、麻希はモリゾウのコートのポケットに手を入れる。物件を見に来た恋人同士に見えるように。
アトリエが外から見えるのはいいけれど、生活を覗かれるのは避けたい。必要に応じてカーテンを閉めればいいが、うっかりカーテンを開けたままにしてモリゾウと「おしゃべり」を始めないようにしなくては。
気の早い心配のついでに、映画製作プロダクション時代に何度も聞いた社長の言葉を思い出す。
社員や親しい取引先が引っ越すと聞くと、社長は決まって「場所が変わったら盛り上がるで」と言った。何がとは言わなかったが、恋人や結婚相手との夜のことだ。相手が女性でも男性でも独身でも既婚でも何歳でも同じことを言った。結婚報告を聞いて「おめでとうございます」と返すような、社長にとっての定型のフレーズだった。
今ならセクハラだと眉をひそめられてしまいそうだが、当時はというか、麻希のいた業界は緩かった。麻希のいた会社は特に大らかだった。社長のとぼけた大阪弁のせいか、麻希が居合わせた限りでは「ほんとですか?」「楽しみです」などと喜ぶ人ばかりだった。キャベツの芯を取って保存すると長持ちすると教えられて、いいこと聞いちゃったと言うようなノリだった。
そんなどうでもいいことを思い出していた。引き出しを探ったら、持っていることすら忘れていたピアスが奥から出てきたような感じで。
「ん?」とモリゾウに顔を覗き込まれて、
「え?」と麻希は我に帰った。
「なんかうれしそうな顔してる」
「嘘!?」
思わず手を頬に当てると、ほてったように熱を帯びていて、余計に恥ずかしくなった。
この部屋に引っ越したら、モリゾウとのおしゃべりがふえるかもって考えてた。なんて恥ずかしくて言えない。
ツカサ君との同棲時間が長くなって、お互いが生活の一部になり、もともと淡白だった関係がさらに薄まり、結婚したらもっと遠のいてしまうのではと不安になって、引っ越しを考えたことがあった。
40代になった今、同じような思考回路で引っ越しに期待している。20代の自分が見たら、あまりの成長のなさに呆れるだろう。でも、なってみたらわかる。10年や20年経っても、びっくりするほど成長しないのだ。40を過ぎても好きな人に頭を撫でられてキュンとするし、キスをしながら続きを期待するし、服を脱がされると高まる。モリゾウとそういう仲になったのが40を過ぎてからだというのもあるけれど、まだときめきの賞味期限は切れていない。
「社長のこと思い出してた」
嘘はついていない。
「マルがビックリになってる社長?」
「マルがビックリ?」
「文末の」
そうだった。社長のメールの文面は、「。」がことごとく「!」になっていた。《明日よろしく!》《現地集合!》といった風に。夜逃げした後に届いたメールは《いつか払う!》と未払いの給料についての約束が書かれていた。
あの会社で働き続けられていたら、派遣会社で暗黒の30代を過ごすことはなかった。そうしたらモリゾウとも出会っていないけれど。
30代最後の誕生日に派遣切りを告げられ、年が明けて再就職活動を始めた3年前。やりたいことは特になく、東京に残る理由だけが欲しかった。ハローワークの前でおじけづいて引き返し、元の職場だったプロダクションが入っていた新宿三丁目の雑居ビルに足が向き、前とは違う店になっていた1階のカフェに入り、マスターと意気投合した勢いでバイトすることになり、当時バイトだったモリゾウに引き合わされた。
その日からずっと一緒にいる。
「モリゾウの社長って誰?」
「俺の社長って?」
「わたしの社長と言えば、プロダクションのときの社長一人なんだけど」
派遣時代に送り込まれた先々の社長には会っていない。名前も顔も知らない。社名を聞くと懐かしさより苦々しさや禍々しさを覚える会社はいくつかある。もし社長の名前を知っていたら、同じ反応を起こすだろう。
「俺も、社長と言えば一人かな」
「そうなんだ? 動画配信講座の社長? あ、それかマスターのこと?」
「マキマキだよ」
「わたし?」
「社長でしょ? makimakimorizoの」
不意打ちを食らって涙がせり上がった。
誰かに社長と呼ばれる日が来るなんて。
その誰かは、わたしを社長というものにしてくれた人で。その人が、わたしを東京の底から引き上げてくれた。
胆石を溜め込んだ日々が報われている。お釣りが来るくらい。
ポケットの中でつながっているモリゾウの手をギュッと握ると、返事のようにギュッと握り返された。確かなものが自分をつなぎ止めてくれているのを感じる。
消えてしまわなくて良かったねと消えたくなった日の自分に言う。
涙がまた水位を上げ、こぼれ落ちそうになる。上を向くと、青空を鳥が横切って行った。
滲んだ目に映る鳥が自分から飛び立ったように麻希は感じる。
胆のうにびっしり詰まっている胆石に魔法がかかり、色とりどりの石が軽やかな羽根に姿を変え、舞い上がり、集まり、鳥になったのだ。
見ててね。もっと幸せになるから。
この部屋で、たくさんドレスを縫って、たくさんキスして、たくさんおしゃべりする。今、隣にいる人と。
自分だけに見えている鳥にそう告げる。
まだ契約もしていないのに。内見すらしていないのに。
次回3月16日に多賀麻希(50)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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