
第216回 多賀麻希(72)迷い込んだ天使
「初めてだよね? マキマキとひなあられ食べるの」
豆皿に分けたひなあられを手に取り、口に放り込みながらモリゾウが言う。
「うん。初めて買った」
最後に食べたのいつだっけと麻希は思う。うんと小さな子どもの頃。だとしたら40年近く前だ。
家を出たのは昼前だったが、病院から帰宅したのは夕方だった。玄関を開けると、モリゾウが待ち構えていて、「おみやげ」と差し出したひなあられを見て、ほっとした顔になった。
思い詰めていたら、ひなあられなんて買って来ないだろうから。
モリゾウは庭を背にして座っていて、麻希はその向かいに座っている。ふたりには大き過ぎると持て余していたダイニングテーブルに、いつの間にか慣れた。ずっと前からこうして向かいあって、コーヒーを飲んだり、食事したりしてきたような気がするが、まだ2年も経っていない。手がぶつかり合うくらい小さなちゃぶ台を囲んでいた頃が、置いてきた青春みたいに遠く感じられる。
「珍しいチョイスだね、ひなあられ」
「そりゃ、ひなあられは今だけだから」
麻希はそう言ってから、あられというチョイスも珍しいなと思う。
「ひなあられじゃなかったら何だろ。シュークリームで来ると思った?」
「え? 祝うような話?」
モリゾウの戸惑った反応を見て、麻希も「え?」となってから、そうだったと思い出す。
シュークリームといえば、お祝いだ。
麻希にとって、子どもの頃からシュークリームはごほうびの単位だった。モリゾウと食べるようになって、シュークリームはおやつの定番になり、日常になり、特別感が薄れていった。

麻希本人は忘れていたシュークリームの意味を、モリゾウは覚えていた。自分だけのものがモリゾウのものにもなって、ふたりのものをふたりで持ち合っている。夫婦だなって思う。
「マキマキ、何笑ってんの?」
「シュークリームでも良かったかもと思って」
「そんないい結果だった?」
「さすがに祝うような話はなかったよ。胆石が消えてましたとか。消えてたら、高級シュークリーム買ってたかも」
今さらだけど、シュークリームって胆石が育ちそうと麻希は思う。気にせず食べてたけど。そりゃ胆石もふえる一方だ。
「もしかして、帰りが遅かったから心配した? 手術前の検査、受けてきたから」
「胆のう、取ることにしたんだ?」
モリゾウが驚く。麻希が一人で決めてきたことに驚いている。
「どうせいつか切るなら早いほうがいいかなと思って」
MRI検査の結果、「胆石が悪さをしている」と認められるところはなかった。
「胆石ふえてますか?」と聞くと、
「前からふえてました」と女性医師は言った。
胆石はふえ、胆のうの壁は厚くなり、引き返すことはない。
「取っちゃいますか」
5年前と変わらないカジュアルさで聞かれた。花が終わったから摘んじゃいましょうかと同じくらい当たり前で、断られることを想定していない言い方だった。
自分が切るならという自信もあるのだろう。
5年前、休日診療をやっているところを調べて病院を見つけ、たまたま出会った先生だが、実は胆のう摘出手術の経験が豊富で、遠方から通って来る患者さんもいるらしい。

「胆のうを置いといても意味がないということですか?」と麻希が聞くと、
「意味がないというより、残す理由がありません」と先生は言った。
「一刻を争うということですか?」
「我々が『一刻を争う』というときは、今すぐということです。そういう差し迫った状況ではありません」
どれくらい差し迫っていないのだろう。今すぐではない、いつか。今日ではない、明日明後日でもない。この5年間、ほったらかしにしてきたのだから。
「もちろん、切っていただくときは先生にと思っています」
「私も、いつまでいるかわかりませんが」
いつまでこの病院にいるかわからない、異動があるかもしれないということだろうか。それとも……。
「人はあっけなく死にますよ」
モリゾウの冷たい声が蘇った。
突然前触れもなく事情は変わる。いつかそのうちは、いつまでもあてにできない。
就職活動に苦戦した麻希を拾ってくれた映像製作プロダクションは、社長が夜逃げして解散した。派遣切りに遭ったこともある。どちらもいつものように出社し、知らされた。当たり前だと思っているものは、実はたまたま続いているだけだ。
その場で手術の日を決め、手術前検査を受けた。
身長と体重を測られ、血を採られ、心電図を取られ、レントゲンを撮られ、肺活量を測られ、検査用の尿を提出した。ひとつの検査から次の検査へと指示されるままに移動しながら、胆のうを取るんだという決意が固まっていった。
新入生が制服の採寸をされ、校章を受け取り、教科書を揃えていき、ここの学校に通うんだと気持ちがついていくように。

準備というのは、物や書類を揃えるよりも心を整えるために行う儀式のようなものかもしれない。
病院を出たときは、ひと区切りつけたようなすっきりした心持ちだったが、しばらく歩くと、モリゾウに相談してからでも良かったのではないかと冷静になった。今この先生をつかまえなくてはと焦ったが、明日明後日の返事でも良かったのではないか。
そのとき、スマホが震え、メールの受信を知らせた。makimakimorizoのショップのアドレスあてにメールが届くことはすっかり減ったが、たまに問い合わせが舞い込んだりする。
差出人は原口直美。夫の姉である伊澤亜子の代理でひまわりバッグを購入し、昨年、亜子と共にそれぞれの娘を連れ、麻希を訪ねてきた。
やりとりしていたショップのメールアドレスあてに、その後、写真が送られてきた。画用紙で作ったと思われる天使の羽をつけた、女の子ふたりの後ろ姿。
《うちの天使たちです》と短い一言が添えられていた。

一度会っているとはいえ、写真を送られる仲になった覚えはなかった。自分たちの子を「天使」と言い切り、その価値観を共有していると決めつけられているようで戸惑った。
何かコメントするべきかと思ったが、そこまで気を遣う義理もないかと思い直し、メールには返事をしなかった。
その原口直美から新たな一通が届いた。また写真を送りつけてきたのかと身構えたが、添付はなかった。
以前送った写真は、誤って送信したもので、困惑させてしまい、申し訳ない。気づくのが遅くなり、申し訳ないと何度も謝られた。《うちの天使たちです》の何倍もの文字数を費やして。
なんだ、そうだったのか。押しつけられたと決めつけ、ママという生き物がわからないと線を引いてしまっていた。
あらためて《うちの天使たちです》のメールを開き、写真を見る。
天使じゃんと素直に思った。
スマホから顔を上げた先に豆菓子屋があり、袋詰めのひなあられが平らな木箱に並んでいた。明るい花や葉の色を宿したあられは、天使が置いていった春の兆しのようだった。

「なんでひなあられにしたかっていうと、ひまわりバッグ買ってくれた人、いたじゃない?」
「ああ、原口直美さん? さっきメール来てたね」
「え?」
あ、そっか。ショップのメール、モリゾウも見ているんだった。
ということは、「天使」の写真も見ていたし、麻希が返事をしていないことも知っている。そのことを話題にしていなかったのは、麻希の屈託を察したからだろうか。
頭のいい人というのは、引き算で動くのだとモリゾウと暮らしていて思う。相手が触れられたくないところは、そっとしておく。
「謝ってたけど、天使が迷い込んでも迷惑しないよね。悪魔なら困るけど」
モリゾウは舞台のセリフみたいなことを言う。
そっか。あれはメールの誤送信じゃなくて、天使が迷い込んだのか。
手術を受けることを決めた病院からの帰り、天使は再び現れた。
《迷い込んだ天使たち、良かったら、そのままうちにいてください》
麻希は原口直美に送る返事を考える。
「ひなあられが迷い込む」
そう言って、モリゾウがひなあられを口に入れる。
麻希も真似をする。同じ言葉を唱え、同じものを口に入れ、同じくらい目尻に皺を寄せて笑い合う。
女の子の健やかな成長を願って食べるひなあられ。こんな大人になって食べると思わなかった。こんなにやさしい味がするって思わなかった。

次回3月14日に佐藤千佳子(73)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
みなさまからの「フォロー」「スキ」お待ちしています!
