
第223回 佐藤千佳子(75)折り入って色々ありまして
夕方の特売セールの放送が流れ始めた。
見切り品の野菜に値引シールを貼りながら、そろそろシフトを上がる時間だと千佳子は思う。店内放送が時計代わりだ。
いつもは買い物をしてから家に帰るのだが、この後、約束がある。
折り入って相談したいことがあるとマキマキさんから昨夜連絡があった。「折り入って」というからには早いほうが良いのだろう。ご都合の良いところまで出向きますというので、スーパーマルフルからの帰り道にあるファミレスを指定した。
遅くなるかもしれないと夫と文香には伝えている。文香は今日もお弁当を持って地区センターの自習室に行っている。自転車で5分ほどの自習室が開いているのは7時までだが、最近の文香は寄り道をしているのか帰りが遅く、8時を過ぎることもある。それまでには帰れるだろうか。
マキマキさんから「折り入って」何の話をされるのか、予想がつかない。
品出しをする間も、レジに立っている間も、「折り入って」が気になって、落ち着かなかった。
マキマキさんとの接点は、いくつかある。
千佳子とパートの同僚だった野間さんがアムステルダムで暮らす間、マキマキさんは夫のモリゾウさんと留守宅で暮らしている。
マキマキさんと野間さんは、チューリップバッグの作者と購入者として出会っていたが、会ったことはなかった。
一時帰国した野間さんが「誰か住んでくれる人いない?」と探していたときに訪ねた新宿三丁目のカフェでマキマキさんがバイトをしていて、初対面から話が一気に進んだ。
その場に千佳子もいた。
千佳子はマキマキさんの作品の愛用者でもある。野間さんがアムステルダムに発つ前、これまでのお礼にと自分の物とは違うチューリップバッグを注文し、贈ってくれたのだ。
千佳子には華やかすぎる鮮やかな赤と大胆なデザインは、どこに持って行っても目を引く。後にアイタス食品の原口直美さんと引き合わせてくれたのも、チューリップバッグだ。

マキマキさんから見れば、千佳子は家主の野間さんと親しい関係者ということになる。
もしかして、野間さんの家を出たい、とか。
住み込みで留守宅を守ってもらう代わりに家賃は取らず、光熱費のみ負担という条件は、金銭的にはとても魅力的だが、自分たちの家で暮らしたいという気持ちはあるかもしれない。ふたり暮らしには一軒家は広すぎて持て余してしまいそうだし、庭の管理も重荷かもしれない。子どもがいないなら、狭くても都心にアクセスのいいところに住みたいかもしれない。
などと、よその夫婦の事情を勝手に詮索する。
野間さんに切り出す前に、わたしの意見を聞きたいのだろうか。でも、「折り入って」相談することでもないような気がする。
家のことではないとしたら、あっちだろうか。
去年の夏、大学受験を控えた文香がモリゾウさんに英語を教えてもらった。
モリゾウさんのことは、マキマキさんより前に知っていた。文香が中学生のときに始めた動画学習サービスの英語の講師として。知っていただけでなく、ファンになっていた。文香ではなく、千佳子が。
ずっと聴いていたい渋い声と、その声に輪郭をつけて服を着せたような色気のある佇まいに心をつかまれ、後ろに束ねたウェーブのかかった髪から「パセリ先生」とあだ名をつけたのも千佳子だ。
そのパセリ先生が野間さんの家に越してきた。画面越しに観ていた憧れの人が、立体になって近づいたり遠ざかったりする。スーパーマルフルにも買い物に来る。
千佳子以上にマキマキさんとモリゾウさんとの距離を詰めたのは夫の母の美枝子だ。
野間さんをl訪ねていたときの気やすさで、今も野間さんのいない家に立ち寄り、届け物をしたり、庭の花を分けてもらったりしている。
留守宅を訪ねる友人の相手をするのも留守番の仕事のうちなのかもしれないが、義母が度々押しかけて迷惑をかけているのではないだろうか。ご遠慮いただきたいという相談なら、「折り入って」となるかもしれない。

義母は、見た目は十分おばあさんなのだが、頭の回転が早く、自分のペースに持ち込むのがうまい。詐欺まがいの訪問販売の営業マンを論破し、スカウトされたほどだ。
千佳子抜きで家庭教師の話を進めたのも義母だった。
家庭教師と言いつつ、モリゾウさんに教えに来てもらうのではなく、文香が野間さんの家に通う形だった。しかも、モリゾウさんは謝礼を受け取らなかった。留守宅を守ってもらっている野間さんが家賃を求めていないので、野間さんゆかりの人からお金を取ることを遠慮したのか、義母がそのように持ちかけたのか。
やっぱり家庭教師の謝礼をいただきたいという相談だろうか。お金の話なら「折り入って」だ。
謝礼をお支払いしなかったから受験の結果に責任を感じてもらわずに済んだと千佳子は思っているが、もし、「やっぱり謝礼を」と言われれば、お支払いするつもりでいる。結果には結びつかなったけれど、英語の成績が伸び悩んでいた文香が、成績以上の成長を得たのは確かだ。
受験の結果は、文香が直接モリゾウさんに伝えに行っていた。マキマキさんも家にいたと話していたから、一緒に報告を聞いているはずだ。
千佳子からマキマキさんには、本読み隊で顔を合わせたときにあらためてお礼を伝えるつもりだったが、すれ違いが続いて会えていない。4月はマキマキさんが来ていたが千佳子が行けず、5月は千佳子が行けたがマキマキさんがいなかった。
もしかしたら、「折り入って」は本読み隊のことかもしれない。
参加するのも抜けるのも自由だし、わざわざ「折り入って」相談するようなことを思いつかないが、千佳子が行けなかった4月に何かあったのだろうか。

赤い値引きシールをパック詰めのミニトマトを見ながら「折り入って」のことを考えていると、色とりどりのミニトマトがそれぞれの事情を抱えてかしこまっているように見えてくる。
「折り入って ご相談が ありまして」
「折り入って 予想色々 ありまして」
「折り入って 人生色々 ありまして」
心の中でブツブツと五七五で唱えていると、
「色々ありますね」
話しかける距離で声がして、千佳子は我に帰った。
思わず、声のほうへ顔を向けると、トマトの赤に負けない鮮やかな赤が目に入った。
「マイさん!」
ハーブのマイさんはスーパーマルフルの取引先でもあるのだが、仕事のときは緑のエプロンを着けている。赤いワンピース姿の今は買い物客だ。
「もしかして、わたし、ブツブツ言ってた?」
「ううん。色んな色のミニトマトがあるなと思って。私たちが子どもの頃って、こんなバリエーションなかったじゃない? もう40年も昔だけど」
よく通るハツラツとした声で話すマイさんは今日も若々しい。40年前に子どもだったということは千佳子と同年代ということになるが、出会った頃から歳を重ねていないように見える。ハーブのチカラなのだろうか。

出会いはこの野菜売り場だった。
「お客様、今、目が合いましたね。合っちゃいましたね」
自分が呼び止められたのかと千佳子は思ったが、緑のエプロンを着けたマイさんが声をかけたのは、目の前を通り過ぎようとした若い女性客だった。
「生ハーブ、ぜひ、味方にしてみてください! お料理のレパートリーが、ぐんと広がります。ミニレシピもつけてます。これ、私が書いて、自分で印刷してるんです」
マイさんの口から放たれる言葉は、好きなものに真っ直ぐ突き進む力強さがある。
「文香ちゃん、すごいじゃない」
目の前の赤いワンピースのマイさんが言った。
文香が東大を受験したことが漏れ伝わり、武勇伝のように受け止められている。足切りには引っかからなかったが、合格最低点にははるかに及ばなかった。一年を棒に振る価値のある挑戦なのか、千佳子には未だにわからないが、残念だったねと言われると、こちらも申し訳ない気持ちになるので、謙遜するほうが気が楽だ。
「すごいんだか、なんだか、ねえ」
いつものように語尾を濁して応じると、
「自習室で取り合いだって、文香ちゃん」
マイさんが思いがけないことを言った。
「何それ?」
「千佳子さん聞いてないの? 文香ちゃん、勉強教える天才らしいよ」
「本当?」
「ほんとほんと。うちの末っ子も自習室行ってるから」
自習室に来ている子は塾に行っていない中学生が多く、学校の授業についていけてない子も多い。特に英語でつまずいている子たちが、文香の教え方で「わかった」となっているらしい。
もう一年受験勉強をすることにした文香に、そんな余裕はあるのだろうか。
マイさんにもう少し話を聞きたいが、そろそろ上がらなくては。マキマキさんに「折り入って」の話を聞かなくては。
そうだ、混ぜてしまえばいい。
「マイさん、この後、時間ある?」

次回5月23日に佐藤千佳子(75)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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