
第219回 伊澤直美(73) マダムさんに甘えていた
「マダムさーん」
ショーウィンドウの向こうに目を凝らし、優亜が呼びかける。その後ろ姿を見て、背が伸びたなと直美は思う。寒い季節は長袖の上に重ね、一年中着ているお下がりのワンピース。引きずりそうだった裾が、くるぶしより上に来ている。
優亜の背中越しに見える店内には、ティーポットやティーカップ、テーブルクロスやテーブルマットやナプキンリングなど、テーブルを彩る品々が並んでいる。輸入品と思われるが、見慣れたブランドのものはない。砂時計、鍋敷き、小鳥をあしらったオーナメント……。食器屋と雑貨屋を合わせたような品揃えだ。
直美と優亜は「マダムさんの店」と呼んでいる。
マダムさんは、夏でも冬でも、波紋のようなひだがゆったりと波打つドレスを着ている。お嬢様がそのまま年齢を重ねたような優雅さと上品さに、ぴったりの服を着せている。「マダムさん」という呼び方がしっくり来るのだが、そう呼ぶのは直美と優亜だけのようだ。
「マダムさん」と優亜が呼ぶたび、マダムさんはくすぐったそうに笑う。ゆるやかにウェーブした栗色の髪がふわりと揺れ、ラベンダー色のフレームの眼鏡の奥の目が細くなる。
出会いは2年前の春だった。
優亜を皮膚科へ連れて行った帰り、行きは急いでいて気づかなかったショーウィンドウに優亜が貼りついた。ガラスに両手とおでこがぴったりくっついていた。店番の女性がドアを開けたので、注意されるのかと身構えたら、
「さくら」
と声をかけられた。
女性が視線を投げかけた先、優亜の肩に桜の花びらが一枚、のっていた。
母と歳が近そうだなと思った。だけど、全然違う雰囲気をまとっている。朗らかで穏やかで柔らかで、母のギスギスしたところにやすりをかけて揉みほぐしたような人だった。
「素敵なマダムさんだったね」と直美が言い、以来、皮膚科の行き帰りに店の前を通りかかると、優亜は「マダムさーん」とショーウィンドウをのぞき込むようになった。
皮膚科に通わなくなってからは、時々、散歩で遠回りして、マダムさんの店に行っていた。その間隔が少しずつ長くなり、最後に訪れた12月の半ばから4か月ほど間が空いている。
そのときはイザオの姉、亜子姉さんと優亜の半年前に生まれた結衣が一緒だった。「マダムさんのおみせ、いくぅ」と優亜が張り切って道案内した。

ショーウィンドウの中は、クリスマスの飾りつけがされていた。華やいだゴールドと赤ではなく、落ち着いたシルバーとブルー。絵描きでもある亜子姉さんが「このセンス、好き」と一目惚れしていた。
天使のオブジェを見て、「ゆあちゃんとゆいちゃんも、てんしになったんだよ」と優亜がマダムさんに言った。
「画用紙で羽を作って遊んだんです」と直美が補うと、
「その天使ちゃんに会いたかったわ」とマダムさんは眼鏡の奥の目を細めた。
写真を見せようとして、スマホを置いてきたことに気づいた。
「良かったら後で送りましょうか」と言うと、
「じゃあ、こちらに」とショップカードを差し出された。
マダムさんに写真を送ったきりになっていたと思い出したのは、2月の終わりだった。
同期入社のタヌキに、いつものように優亜の話をしていたら、「適量ってあるよね」と言われ、反省した。他の人たちにも無意識に「うちの子」を押しつけてしまっているのではと。
そう思ったとき、思い浮かんだのが、マダムさんの顔だった。
もしかしたら、天使の写真を見たいと言ってくれたのは、こちらに合わせてくれただけだったかもしれない。
《うちの天使たちです》
と添えて写真を送ったメールに返信はなかった。
送信履歴を辿り、そのメールがマダムさんではなく、ひまわりバッグのmakimakimorizoのショップに届いていたことに気づいた。

ショップカードで初めて知ったマダムさんの店の名前は「minun makuuni」といった。フィンランド語で「私のお気に入り」という意味だという。
店のメールアドレスは、@の前がmakuuniとなっていた。makまで打ったところでmakimakimorizoのアドレスが予測変換で出てきて、それを選択してしまったらしい。
頼んでもいない写真をいきなり送りつけられ、makimakiさんは面食らったに違いない。慌ててお詫びのメールを送った。随分失礼なことをしてしまったのに、返ってきた言葉は温かかった。
《迷い込んだ天使さんたち、良かったら、そのままうちにいてもらっていいですか》
迷惑ではありませんよと伝える文面に胸を撫で下ろした。それだって気を遣って言葉を選んでくれたのかもしれないけれど、同じことをされたとき、こんな対応をしたいものだと思う。
一方、写真を送りますと言ったのに送れていなかったマダムさんには、まだ連絡していなかった。今さら送られても、忘れていた期間の長さが炙り出されるだけだし、マダムさんが待っていない可能性もある。だったら、直接お店を訪ね、「天使の写真、待ってたのよ」とマダムさんに言われたら、その場で写真を見せようと思ったのだった。
マダムさんの店は自宅マンションから徒歩で15分ほどの距離だが、優亜と歩いて来ると倍の時間がかかる。
子どもは歩幅が小さいし、ことあるごとに立ち止まる。いや、何もなくても足を止める。大人の目には留まらないフシギを見つけ、吸い込まれるように見つめる。
「まつげ!」
優亜が声を弾ませて指差す先には、草むらがあった。
細長く尖った葉が伸びているさまが何に似ているかと問われたら、お弁当の仕切りに使われる緑のペラペラくらいの連想はできるが、まつ毛までは飛べない。子どもの発想のやわらかさは離れワザだ。
「誰のまつ毛?」と聞くと、
「かいじゅうさんじゃない?」と言う。

「ワッハッハーの怪獣さん? 笑いすぎて、まつ毛落としちゃったのかな?」
「かいじゅうさん、ここから、はえてくるんじゃない?」
怪獣が生えてくる!?
優亜の目に映る世界では、土から生えたまつ毛の下に怪獣の顔があって、体があって、土をかき分けてコンニチハするのだ。
わたしにも世界がそんな風に見えていた時期があったのだろうか。想像できない。そんな自分に眼差しを向ける母は、もっと想像できない。そんな子ども時代はなかったのかもしれない。
だからこそ、優亜には今しかない感性で世界を見て欲しいし、その感性を愛おしみたいと思ってしまう。
そんなわけでマダムさんの店に着くまでに、いつも以上に時間がかかったが、ショーウィンドウの中にマダムさんの姿はなかった。
マダムさんが天使の写真を今も待ってくれているのか、そもそも最初から待ってくれていたのか、マダムさんに会えば、はっきりすると思っていた。
だけど、マダムさんに会えない可能性を考えていなかった。
いつだって、マダムさんは待ってくれていると思っていた。いつものように今日も、ショーウインドウを覗き込む優亜に気づくと、ドアを開け、やわらかな微笑みを向けてくれると。
いつでも歓迎してもらえるというのも自惚れだ。甘えだ。

「マダムさん、かくれんぼしてるのかな」
優亜は無邪気に言うが、直美は胸騒ぎを覚える。
店内の時間が止まっているように感じられるのだ。品物も空気もしばらく入れ替わっていないのではないか。

次回4月11日に伊澤直美(74)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
みなさまからの「フォロー」「スキ」お待ちしています!
