
第226回 伊澤直美(76)母にかけられた呪い
談話室に現れたマダムさんは、明るい藤色のパジャマのせいか、前回より元気そうに見えた。上が長めなので、ワンピースのようにも見え、お店にいたマダムさんの印象に近づいている。
「ゆあちゃん、ゆいちゃん」
結衣も行くことを事前に伝えていたが、優亜と結衣の名前がスッと出た。前回は「ゆあ」が「うあ」に聞こえたが、「ゆあ」「ゆい」と聞こえる。リハビリの成果だろうか。
前回は作業療法士さんに車椅子を押してもらっていたが、今回は床につけた足で歩くようにして、直美たちがいる丸テーブルへ車輪を進ませる。
「マダムさん、いいな。ゆあちゃんものりたい」
「ゆいちゃんも、のりたい」
ついこの間までバギーに乗っていた優亜と結衣にとって、車椅子に親しみと懐かしさを抱かせるものらしい。優亜は足が着くようになり、地面を蹴ってバギーをくるくると回転させる遊びを覚えた。ケガをする前にバギーを卒業させたのだが、未練があるようだ。
「いいでしょ。でも、この車はマダムさん専用です。はい到着」
マダムさんはそう言って、テーブルに合流した。前回よりも言葉がスムーズに出るようになっている。

子どもがいると間が持つ。ふたりいると、さらに。
以前、亜子姉さんとともに母娘ふた組でひまわりバッグの作者、makimakiさんの家を訪ねたときも、大人は緊張していたが、娘ふたりは庭で無邪気にクローバーを摘んでいた。
《あしたは ぼくのおやつ
きみに ぜんぶあげる
ぼくが おやつのゆめを みたら
きみに ぜんぶあげる
きみが おばけのゆめを みたら
ぼくが ぜんぶたべる》
あのとき優亜と結衣が歌っていた歌を直美は初めて聞いた。結衣に教えてもらった歌だと思っていたのだが、亜子姉さんも初めて聞いた歌だったらしい。あの場で遊びながら生まれた歌だったのかもしれない。
子どもはどこに行っても楽しいことを見つける。発明する。
「マダムさんね、こう見えて、おむつなの」
とっておきの秘密を優亜と結衣に打ち明けるように、マダムさんが小さな声で言う。
「ゆあちゃんも、おむつだったよ」
「ゆいちゃんも。でも、いまは、おねえさんぱんつ」
直美が気のきいた返事を探している間に、優亜と結衣はマダムさんをケラケラと笑わせる。
「天使ちゃんたちを連れて来てくれて、ありがとうございます」
マダムさんが直美に頭を下げる。
血色も良く、前回と同じ色だと思われる口紅がさほど浮いて見えない。年齢は母より5つほど上だろうか。最後に母の顔をまともに顔を見たとき、優亜はまだおむつをしていた。今の母とマダムさんが並んだら、同い年ぐらいに見えるのかもしれない。

「あじさい、きれい」と結衣が談話室の壁を指差す。
折り紙で作った紫陽花が壁に飾られている。紫、ピンク、水色、黄色。花びらのように見えるのはガクだと教わったのは、中学校の理科の授業だった。
「ゆいちゃん、ほいくえんでつくった」
「ゆあちゃんもつくった」
「じゃあ、マダムさんに作ってくれる?」
「いいよー」と優亜と結衣の声が揃った。
通りかかった作業療法士さんに会話が聞こえていたらしく、
「折り紙、持ってきましょうか」
と爽やかに言って立ち去ったかと思うと、すぐに折り紙を手に戻ってきた。指のリハビリで使うので、常備しているらしい。
作業療法士さんは皆若く、動きがキビキビしている。お揃いのポロシャツとジャージが大学の運動部のユニフォームのようだ。
「はんぶんにおって、もうはんぶんにおります。ここまで、いいですか」保育園の先生の口調で優亜と結衣が手順を言いながら折っていくのを、マダムさんは目を細めて見守っている。
車椅子に乗って、おむつをはいているマダムさん。不自由なことはたくさんあるだろうけれど、穏やかで、にこやかで、わたしよりずっと健やかだ。
そう思う直美は、昨夜のイザオとのやりとりの後味の悪さが胸につかえている。
「娘って、どうして父親に似るんでしょうね」
イザオが「お義母さんを休みたい」となった理由をあらためて聞いたところ、直美の母にそう言われたと打ち明けられた。
「俺と優亜が似ていると良くないことが起こるみたいな不吉な言い方でさ。お義母さんは、出て行ったお義父さんのこと、良く思ってないわけじゃない? 昔のこと、都合良く忘れているようで、本当は全部覚えてるのかも。自分のことと娘夫婦の事情を混ぜて呪いをかけないで欲しいよ」
これまでやり過ごしてきた母への不満が噴き出したイザオは、それを原液のまま垂れ流した。
事情はわかったが、同情はできなかった。優亜がイザオに似ている前提になっているのが解せないし、わたしが母にかけられた呪いに比べたら軽すぎる。
両親の関係に亀裂が入ったのは、直美の中学受験がきっかけだ。結果を出せず、地元の公立中学校に行くことになったとき、「お父さんを勝たせたね」と母は嫌味を言った。中学校を卒業した日には「お母さんの人生、返して」と言われた。

そんな母だからイザオを会わせたくなかった。ギリギリになって結婚を報告したときの一言も強烈だった。
「直美は幸せになんかなれない」
母の呪いには即効性と持続性がある。その場で打ちのめされ、思い出すたび、えぐられる。言葉の刃で相手を傷つける闇コピーライターのような職業があれば、天職だと思う。母に言われたあれこれを思い出して古傷が疼いたが、傷口に毒を塗るようなイザオの言葉が蘇った。
「腹を貸したね」
優亜が生まれて間もない頃、酔っ払って帰宅したイザオが眠っている優亜の顔を覗き込み、「どんどん俺に似てくる」と言った後に放った言葉。子宮を提供しただけだから優亜とは似ていないという文脈で。
やはりイザオは覚えていなかった。
「今だから言うけど、あれ、すごく傷ついたんだから」と直美が言うと、
「いつの話だよ?」とイザオは呆れた。
ずっと根に持っていたわけじゃないけど、深いところに沈んでいて、時々頭をもたげる。
「俺だけに似てるわけじゃないだろ? 優亜、ハラミにも似てると思うよ。問題はそこじゃないだろ?」
問題はそこだけじゃないんだけど。自分は産めないから産んで欲しいと泣いて頼んだくせに、優亜がお腹にいる間は、つわりもなく、お酒もコーヒーも好きに飲んでいたくせに、わたしをレンタルルーム呼ばわりしたことが許せないんだけど。
そう言いたいのを飲み込んだ。イザオとこじれてしまったら、「直美は幸せになんかなれない」と言った母の呪いを正解にしてしまうから。

「ふたりとも、とっても上手ね」
マダムさんの声で直美は明るい現実に引き戻される。
優亜は角と角をきっちり合わせて折る。直美と同じだ。わたしと似ているところだってあるじゃない。
「マダムさんもつくる?」
優亜が紫色の折り紙をマダムさんの前に滑らせた。マダムさんがお店でいつもかけていたメガネのフレームの色。左半身に麻痺が残っていると聞いている。折り紙はできるのだろうか。
「じゃあ、マダムさんは、魔法の紫陽花、作ろうかな」
「まほうのあじさい?」と優亜と結衣が身を乗り出す。
「片手でも簡単に作れちゃうの。真ん中のちょっと手前で山折りにして、ちょっと向こうで谷折りにして、段々にします」
マダムさんは、麻痺が残っている左手で折り紙を押さえ、動かせる右手で山折りと谷折りにし、プリーツスカートのように真ん中にひだを作る。それを90度回転させ、先ほどのひだと直角にひだを作る。優亜と結衣も真似をする。
「はい、出来上がり」
マダムさんのゆっくりした動きでも、優亜と結衣の折り方より早く出来上がった。
「すごい、あっというまだ!」
「マダムさんのあじさい、はやくておおきい」
「もっとつくるぅ」
優亜と結衣が次の一枚を手に取り、優亜がマダムさんに一枚手渡す。
「ママもいい?」と直美が手を出して折り紙を待つと、
「いいにきまってるよ。みんながあつまらないと、あじさいにならないんだよ」
優亜が大人ぶって言った。保育園の先生の受け売りだろうけれど、直美は泣きそうになる。どちらに似たかなんて、どうでもいい。この優しさと朗らかさが愛おしい。
マダムさんの折り方で紫陽花を折ってみる。折り目の数は、たったの4本。もっと簡単でいいのよと言われた気がする。
イザオに出会えたから優亜に出会えて、数えきれないプレゼントを受け取っている。それでいいじゃない。「お母さんの人生、返して」なんて、わたしは言わない。もう返してもらってるから。
テーブルに紫陽花が増えていく。優亜と結衣が保育園で教わった折り方の小さな紫陽花と、マダムさんの折り方の大きな紫陽花。色とりどりで折り目のつけ方にも個体差があるけれど、離れて見ると、カラフルなひとまとまり。
人差し指で折り目をつけながら思う。
お母さん、私、幸せになってます。

次回6月27日に多賀麻希(75)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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