
第230回 佐藤千佳子(78)わたしはみんなでできている
「違うの、佐藤さん、全然違う」
電話の向こうでアムステルダムの野間さんは言った。
そう。全然違う。千佳子は心の中で答える。野間さんはパートから取締役にと打診された。わたしはパートから店長に。抜擢の垂直移動の距離が、うさぎ跳びと棒高跳びくらい違う。
「私は、女性でも、いくつになっても活躍できるっていうストーリーに都合良く当てはまっただけ。びっくりするような年俸を提示されたけど、契約は一年だけの社外取締役だから、話題作りに貢献したらお役御免になる可能性はあった。でも、佐藤さんは店を任せられる人、地域と一緒に店を育てられる人として選ばれた。私は過去を買われたけど、佐藤さんは未来を買われたの」
聞いていて、千佳子は恥ずかしく、申し訳なくなった。野間さんの大きさと、それに引き換え、自分の小ささを突きつけられたようで。
社外取締役にと打診されて、野間さんはマルフルを卒業することを決めた。認められて気が済んだと野間さんは話していたが、本部のストーリーに消費されることへの反発も大きかった。そんな会社に愛想を尽かした。
これからの時間は好きなことに使わせてもらうと宣言してアムステルダムへ発った野間さんは、結局、以前勤めていた広告代理店の現地法人でキャリアを再開している。
オランダは男女の壁や年齢の壁が日本よりずっと低いと聞くし、野間さんは英語力とキャリアを持ち合わせている。とはいえ、野間さんだって、平行移動だけではなかったのではないか。
もしかしたら、マルフルで違う認められ方をしていたら、野間さんは今も日本で働いていたのではないか。
千佳子の抜擢を自分のことのように喜ぶ野間さんの想いには、思い残しが含まれているのではないだろうか。

「もちろん、責任も大きくなるけど、佐藤さんがマルフルでやりたいことを実現しやすくなると思う。そうそう、佐藤さんがハーブマルシェを企画していることも伝えた。店長になる話を引き受けるかどうかは佐藤さん次第だけど、こんなパートさんがいるってことは知ってもらいたかったの」
千佳子の力不足で棚上げになったハーブマルシェを野間さんは過去形にしていない。千佳子以上に、今もマルフルのことを考えている。
やっぱりわたしなんかに店長は務まらない。
千佳子を店長に推すために野間さんが話を盛ったことへの違和感の正体は、「そこまでしてもらわなくても」という気後れというより、推薦理由に自分が追いついていない自信のなさだったのかもしれない。
打診されたらなんと言って断ろう。
できるだけやんわり伝えたい。インターネットで検索すると、一番上にA Iによる模範回答がずらずらと出てきた。
どれも頭が良くて気のきいた人が言いそうで、千佳子のボキャブラリーにない単語が並んでいた。これだけ自分の状況をうまく言語化できる人なら店長になれるのではないかとA I回答の矛盾にモヤモヤした。
だが、何日経っても「店長に」の話はなく、噂すら流れてこない。
野間さんの思い違いだっただろうか。そうであって欲しいという気持ちと、現実であって欲しいという気持ちがフライドポテトに添えられるケチャップとマスタードのように混ざり合って、渦を巻く。

「千佳子さん、明日、私と品出しやりませんか」
ハーブのマイさんに誘われたのは、野間さんからの電話を受けて数日経った夜のことだった。
「明日入る予定だった人のお子さんが熱を出しちゃって、私が行くことになったんだけど、急遽もう一人必要らしくて」
自分が長年パートで働いているスーパーの品出しに誘われる。なんだか不思議な感じだ。
品出しは、品物を棚に並べる開店前の作業を指す。マイさんはハーブスクールの生徒さんを「研修」と称して送り込んでいる。マイさん枠が1名分確保されていて、スクール生の中から行ける人を募る形だ。
お客さんを入れる前の店を見てみたい気持ちはあったが、「このタイミングで?」とためらった。
まるで店長のポストを意識して、張り切って勉強しようとしているみたいではないか。
そんなこと誰も気にしていないし、そもそも野間さんの思い違いかもしれないのに、自意識過剰のブレーキがかかる。
だが、「終わってからモーニングでも」というマイさんのひと押しで、「行きます!」と返事した。
当日の朝。「おはようございます」の挨拶もそこそこに、「千佳子さんは常温品ね」と指示をしたのは、緑のエプロン姿のマイさんだった。
生鮮品。飲料品。冷凍品。弁当品。常温品。
カテゴリーに分かれ、各自がダンボール箱から商品を取り出し、棚に並べていく。
15分毎に1つの作業をこなすサイクルになっている。それが人間工学的に最も効率が良いらしいのだが、作業ペースには個人差がある。マイさんは箱を次々と空にして、次の15分の作業を前倒しで進めていく。逆に千佳子は次の15分の作業が後倒しになる。マイさんを見ているから余計に遅くなる。

仕事終わりのモーニングは、以前、マキマキさんの「折り入って」の話を一緒に聞いたファミレスに行った。
あのときマキマキさんにマルフルでパートを募集していないかと聞かれた千佳子が、品出しは人手不足だと答えると、研修の場にするアイデアをマイさんが思いつき、すぐに店長と話をつけたのだった。
「マイさん、慣れてましたね。今日で何回目なんですか?」
フレンチトーストに添えられたベーコンをナイフで切りながら千佳子は聞いた。
「土曜は初めてだけど、私、毎週月曜に入ってるの」
驚いた。流通の現場を学ぶなら、数回で十分ではないのだろうか。
「そんなに勉強になりますか?」と千佳子が聞くと、
「私、好きなの。品出し」と意外な答えが返ってきた。
「短い時間にダッシュでお店が整っていくって爽快じゃない? これから一日が始まるぞって感じ。だから月曜の朝がぴったりなの」
「あー、それはわたしも今日、感じました。品出しした後のお店って、一日で一番新しくてきれいですもんね」
「そうなの。あの眺め、大好き。お店って、たくさんの商品でできてるんだなって当たり前のことを思い出させてくれるし、初心に帰れるの。私もみんなに作ってもらってるんだなって」
みんなに作ってもらっている? マイさんが?
ベーコンを噛みながら、千佳子はマイさんの言葉を噛みくだく。言おうとしていることがわかるような、わからないような。自分一人では大きなことはできないという意味だろうか。
首を傾げる千佳子を見て、マイさんは思い出したようにスマホを開き、画面を千佳子に向けた。
白いドレスが目に飛び込んだ。

「これって、マキマキさんに発注したドレスのデザインですか?」
「そう。生ハーブブーケドレス。スカートがポケットになっていて、みんなにハーブを挿してもらって完成させるの」
マルフルでのパート仕事を探していたマキマキさんに、一番やりたいことに時間を使うべきだとマイさんは言い、秋のイベントで着るドレスをその場で注文したのだった。
「折り入って」の相談がなかったら、このデザインは生まれていなかった。そう思うと感慨深い。
「人生は、空っぽのポケットにハーブを挿していってブーケを作るようなもの。なんて格言ありそうじゃない?」
マイさんがいたずらっぽく笑ったとき、テーブルに置いた千佳子のスマホが震え、メッセージの受信を知らせた。
待ち受け画面に発信者とメッセージが表示される。
発信者は「原口直美」。アイタス食品の商品開発部に勤めている。オンラインの消費者調査でインタビューされたのが出会いだ。その後、対面での偶然の再会があり、以来、何度か会っている。ハーブマルシェの相談もしている。
メッセージは《優亜とお店やさんをやります》。
受信画面を開くと、雑貨屋さんのような店の前に立つ娘の優亜ちゃんの写真があった。大きくなったなと千佳子は目を細める。最後にパンケーキ屋さんで会ったときにも着ていた文香のお下がりのワンピースを着ている。ふくらはぎ辺りにあった裾が膝下にある。それだけ背が伸びたということだ。
「お店やさん?」
千佳子のつぶやきをマイさんがつかまえ、聞いた。
「どこのお店?」

次回8月8日に伊澤直美(77)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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