
第229回 佐藤千佳子(77)わたしの中の認められたい願望
その知らせは、アムステルダムにいる野間さんから電話でもたらされた。
「佐藤さん、聞いてる?」とまず言われた。
「何の話ですか?」と千佳子が聞くと、
「聞きたい?」と野間さん。
「良い話ですか? 悪い話ですか?」
「佐藤さんが店長になるって話」
「わたし、聞きたいってまだ言ってませんけど」
千佳子はそう言ってから、「ええっ」と驚いた。
「佐藤さんの驚くタイミング、面白い」
電話の向こうで笑った野間さんが続けた。
「本部から打診されたら、初耳のフリして驚いてね」
野間さんはアムステルダムの広告代理店で働きながら、マルフルの社外アドバイザーをしている。オランダや近隣の国のスーパーを回って売れ筋商品などをレポートする仕事で、マルフルの本部と定期的にやりとりしている。
海外にいる野間さんには「ここだけの話」をしやすいのか、人事情報もいち早く入る。日本とはマイナス6時間の時差があるのに、6時間後ろにいる野間さんのほうが情報が早かったりする。
「野間さんの聞き間違いじゃないんですか」
「佐藤さんってほんと、慎重だよね。佐藤さんが刑事だったら、誤認逮捕なんて、絶対あり得ないね」
「これって良い話なんですか」
「そりゃ良い話でしょう。大抜擢なんだから。佐藤さん、一旦言わせて。おめでとう」

「はあ」と千佳子は気の抜けた返事しかできない。
このわたしが店長に?
「佐藤さん聞こえてる?」
「はい。でも、理解が追いつかなくて」
千佳子は「長」のつくものに縁のない人生を歩んできた。部長や委員長どころか、遠足の班長さえ指名されたことがない。
なる人は何度でもなる。どこに行ってもなる。ならない人は一度もならない。どこに行ってもならない。
もちろん千佳子は「ならない人」だ。だから、マルフルの店長は、千佳子にとって初めての「長」のつくものということになる。
店長だと勘違いされたことは一度だけあった。
以前、マルフルに買い物に来たマキマキさんと会ったとき、レジを打っていることに驚かれた。店長だと思っていたと言われ、ちょっと浮かれた。わたしって、そんな風に見えるのか。思われるのか。それだけで自信のようなものが芽生えた。
マキマキさんが購入したパセリを見つけたハーブのマイさんが会話に加わり、うちでハーブの苗を扱えませんかという相談からハーブマルシェを開くことを思いついたのは、その流れだった。企画書のイラストはマキマキさんに描いてもらった。
店長だと勘違いされたあの日、自分がデキる人になったような気がして、勢いづいていた。企画はその後、詰めの甘さから先細りになってしまった。万能感の賞味期限は短かった。
「文香ちゃんも高校卒業したし、時間に余裕できたでしょ? 佐藤さん、そろそろ次のステージに進んでもいいんじゃない?」
確かに、千佳子が自由に使える時間はかなりふえた。文香は進学先が決まらず、今年も受験生だが、マルフルでパートを始めた中学一年生のときに比べれば、まったく手がかからない。
次のステージ。店長になる。このわたしが?
突然名前を呼ばれてステージに引き上げられ、ライトの下に立っているようなそわそわした気持ちになる。誰かより目立つこと、光を当てられることに慣れていないから、どう振る舞って良いのかわからない。

店長になった未来を想像する。まだ正式に打診されていないのに。
毎日出勤することになるのだろうか。
本部の会議に呼ばれるのだろうか。
肩書きの入った名刺を作るのだろうか。
店長の給料って、どれくらい?
信じられないくせに、うれしいのだ。たくさんいるパートの中で自分に白羽の矢が立てられたことが。
でも、どうして?
「もしかして、野間さんがわたしを推薦してくれたんですか?」
「推薦っていうか、パートさんを積極的に店長にするって話が出てたから、こんな人がいますよって佐藤さんの実績を伝えたの。パセリの花束をヒットさせて、焼きいもをヒットさせて、夏の焼きいももヒットさせた人ですって」
「待ってください。焼きいもをヒットさせたのはわたしじゃなくて、義母です」
焼きいもソングを流してヒットに結びつけたのは、義母の美枝子が一時的にマルフルで働いていたときだった。去年、アイスとの抱き合わせで夏の焼きいもをヒットさせたのも義母だった。今はマルフルで働いていない義母のアイデアを野間さんが本部に売り込んだのだ。
その野間さんが思い違いをすることはあり得ないのに、千佳子の手柄ということになっている。

「だって、美枝子ちゃんがマルフルで働くことになったのは、佐藤さんの力添えがあったからでしょ?」
「力添えじゃないです。うちに転がり込んだ義母に手を焼いて、野間さんに泣きついて、引き受けてもらったんです。それで野間さんと義母が意気投合して、野間さんが義母をパートに引っ張り込んだら、焼きいもがヒットしちゃったんです。覚えてますよね?」
「ちゃんと覚えてるよ。美枝子ちゃんとの同居は無理って佐藤さんが訴えなかったら、私と美枝子ちゃんの同居はなかった。美枝子ちゃがマルフルで働くこともなかった。つまり、きっかけを作ったのは佐藤さん」
「つまりって。野間さん、こじつけすぎです」
「あと、最近のあれ、朝の品出し。ハーブのマイさんが研修で人を送り込んでくれるようになったの、画期的だよね」
7月からマイさんのハーブスクールの生徒さんが開店前の品出しに交代で入っている。そのことを千佳子からは伝えていなかったが、野間さんはマイさんのインスタで知ったらしい。
「人手不足が解消されたし、マイさんからのフィードバックで現場の作業効率上がったらしいじゃない?」
「それはマイさんがすごいんです」
「そのマイさんを連れてきたの、佐藤さんだよね」
それも違う。千佳子がマイさんに出会ったとき、マイさんは緑のエプロンを着けて売り場に立ち、生ハーブブーケを紹介していた。マイさんがアドバイザーを務める農園はすでにマルフルの取引先だった。取り扱い点数が一気に増えたのは、マイさんが売り込んだからだ。アポを取ったのもマイさんで、千佳子はつないでさえいない。

「私ね、佐藤さんはもっと報われるべきだと思うの」
店長に抜擢されることは、報われるということなのかもしれない。けれど、報われるイコール店長になるということではない。買った覚えのない宝くじが当選しても、喜びよりも戸惑いが勝ってしまう。
「認められたい気持ちは、もちろんあります。でも、野間さんに下駄を履かせてもらって店長になるのは、ちょっと違うかなって」
「私は、かき消されそうな声をスピーカーで大きくしただけ。多少は誇張したけど」
多少どころではない。千佳子の実体験が脚色され、店長誕生への伏線に書き換えられている。そんなことは頼んでいない。
野間さんにとっての成功には値札がついている。評価されたい、報われたい、お金で。アムステルダムに行って、幸せの基準が変わったと思ったが、人はそんなに簡単に変わらないのかもしれない。
「佐藤さんも、こっちに住んじゃえば?」
春に文香とアムステルダムを訪ねたとき、野間さんに言われた。
日本ほど若さが持てはやされず、中高年女性の価値が落ちない国で仕事も恋も手に入れた野間さんは、当分日本に帰ってくるつもりはないらしい。
「無理、無理」と千佳子が笑って受け流すと、
「ダンナさん置いて行けないよね」と野間さんも笑った。
野間さんとの決定的な違いは、そこではない。野間さんは言葉ができる。広告代理店で働いていたキャリアもある。ダンナさんの転勤でアメリカ暮らしも経験している。

海外で暮らすこと、働くことは、野間さんにとっては、場所を変えるだけのこと。水平移動だ。以前働いていた外資系広告代理店のオランダ法人で仕事を見つけられたのも、マルフルの社外アドバイザーになれたのも、キャリアがあったからだ。英語ができるから、オランダ語の習得も早かったらしい。
千佳子は英語ができない。キャリアもない。マイナスからのスタートだ。水平移動に垂直移動が加わる。
日本にいても、千佳子が店長になるには垂直移動が必要だ。下駄どころかハイヒールを履かせてもらっても届かないポストなのかもしれない。
だからこそ、この話は……。
「わたしは、パートから店長に大抜擢なんですね。野間さんはパートから取締役だったのに」
自分の口から出た言葉に驚いた。

次回7月25日に佐藤千佳子(78)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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