
第231回 伊澤直美(77)お店やさんごっこは甘くない
「優亜も連れて行くの?」
イザオの声は不機嫌だった。疑問形だったが、真意は「連れて行くな」の命令形だ。
「優亜も一緒に頼まれたんだから」
そこまで言って、靴を履いている優亜に「ね?」と直美が声を向けると、リハーサル済みのような呼吸で「うん!」と返事があった。
「優亜と一緒にいたときに言われただけだろ?」
「『あなたたち』ってお願いされたんだから、優亜も入ってる」
「あなたたち」の5文字を強調した。
脳梗塞で倒れてリハビリ入院中のマダムさんのお見舞いに行ったとき、頼まれたのだ。退院するまでもうしばらくかかるので、時間があるときに店を開けてもらえないかと。
マダムさんの店のある一帯が再開発されることになっていて、年内に店を明け渡さなくてはならないという事情があった。
物理的に空っぽにすることはできる。だが、縁あって自分の店に迎え入れた品物たちの行き先を乱暴に決めてしまうのは心が痛む。全部は無理でも、出会うべき人のところに行かせてあげたい。
マダムさんは、以前より開け閉めに時間がかかるようになった口をゆっくり動かしながら、そんなことを切々と訴えた。
せめて週に一度だけでも店を開けて、風を入れてもらえたら。
通りかかった何人かが足を止めてくれたら。
そのうちの誰かが品物を連れて帰ってくれたら。
以前、マダムさんの店の前で会い、マダムさんが入院していることを教えてくれた妹さんは遠方に住んでおり、通うのが難しいとのことだった。
「誰にでも頼めることではないの。あなたたちだから」
そう言われたら、「わたしたちで良かったら」と言うしかないではないか。

亜子姉さんの出張中に預かっていた結衣もお見舞いに連れて行った。だから、結衣も「あなたたち」に入っている。その夜、亜子姉さんが結衣を迎えに来たときに話したら、
「直美ちゃんは平日会社でしょ? 私、平日、店番やろっか」と軽く引き受けてくれた。
亜子姉さんの家から目黒までは、電車でも車でも1時間ほどかかるのだが、
「パソコンがあればイラストの仕事はどこでもできるし」と言う。
店番の時間を捻出するのではなく、仕事場を変える発想。頭の柔らかさがフットワークを軽くする。そんなにお客さんは来ないし、ドアを開けて風を通すことが目的だし、それくらいの気楽さでいいのかもしれない。
亜子姉さんが水曜、直美が土曜。まずは週2日開けてみることにした。
その初日、土曜日。午前11時開店を目指して、これから出かけようと玄関に向かった10時過ぎ。イザオの「優亜も連れて行くの?」に呼び止められたのだった。
店番の話はイザオも知っていた。亜子姉さんに話したとき、一緒に聞いていた。
「イザオもやる?」とも聞いたら、「おれはいいよ」と遠慮された。
優亜を連れて行くとは言っていなかったかもしれないが、連れて行かないとも言っていない。
つい最近もこんなやりとりをしたなと傘を差して歩く優亜と結衣の後ろ姿を思い出す。直美とイザオはふたりの後ろを歩いていた。
「結衣も一緒にお見舞い行くんだ?」とイザオに聞かれ、
「もちろん。結衣もマダムさんに会ってるし」と直美は答えた。
マダムさんのお見舞いに行く前の日のことだった。

イザオはマダムさんに会ったことがないし、店の場所もなんとなくしかわかっていない。自分がよく知らない人に妻や娘や姉や姪が近づいているのが面白くないらしい。マダムさんが存在感を増すと、自分の存在感が目減りするとでもいうのだろうか。
「優亜とどっか行こうとしてた?」
「別に。でも暑いだろ」
「熱中症の心配してるわけ? お店にもエアコンあるよ」と直美が言うと、
「割れものとかあるんだろ」とイザオ。
「大丈夫だよ。走り回ったりしないし」
「そんなの退屈だろ」
ああ言えば、こう言う。だろだろ言う。めんどくさい。
「ゆあちゃん、おみせやさんやるから、パパ、おきゃくさんやったら?」
優亜が空気を読まない明るさで口を挟んだ。
「それいいね。パパにお客さんやってもらお」
顔は優亜に向けつつ、言葉はイザオに向けると、
「そんなのでいいわけ?」
イザオはまだ不満そうだ。
「そんなのって?」
「お店やさんごっこみたいなノリでいいの? そういう店なの?」
「そういう店って、どういう店?」
互いの足元に言葉で溝を掘りあっているような会話に覚えがある。子どもを産むか産まないかですれ違っていた頃。
今すぐ子どもが欲しい夫と、まだ欲しくない妻。
論点は、はっきりしていたが、産むか産まないかの二択ではなかった。産まないとは言っていないけれど、今じゃない。産むと産まないの間の濃淡を分かち合えず、わかり合えない溝を深めていた。
結局は優亜がお腹に入り、旅行を計画する前に走り出した列車に乗り合わせたように子育てが始まった。
産んでみたら、優亜に出会わなかった人生なんて考えられなくなったが、産んだら産んだで、新たなすれ違いが生まれた。年に何度かの衝突があり、その何倍もの日々の違和感をどちらかがやり過ごすことで衝突を避けている。
「この人とは根本的に価値観が違うのかも」と思うことはある。「あのお義母さんの息子だし」とも思うが、わたしだって「あの母の娘」だ。親の悪影響ではいい勝負だ。それに、足並みがぴったり揃う夫婦なんて、いるだろうか。致命的な違いではない限り、どちらかが折れるのではなく、「どちらもあり」でふんわりさせておくのがいい。
優亜が大きくなるに連れ、直美のやり過ごし力も育ってきた気がする。

「来てくれてもいいし、来なくてもいいし、イザオの好きにして」
イヤミにならないよう明るく言って、優亜と家を出た。
マダムさんの店まで歩いて向かう道の途中で「体験会やってます」とチラシを配っていたが、直美は手を出さなかった。同じものが先週、ポストに入っていた。この夏にオープンした幼児教室。小学校受験に向けて、子どもの知力を育む教室らしい。
「こういうの、どうなんだろ?」
イザオが肯定を期待する疑問形で聞いてきたのを思い出す。
「どうなんだろね」
直美が否定的なニュアンスで返し、会話は打ち切られた。もしかしたら、イザオはこれに優亜を連れて行きたかったのかもしれない。
そんなことより、生きた社会勉強をさせたほうがいい。
マダムさんから預かった鍵で店のドアを開け、ドアの内側にかかっている「CLOSED」の札をひっくり返して「OPEN」にした。
それから1時間。
店の前を通り過ぎる人の何人かと目が合った。店が開いていることに気づいてもらえたようだが、ドアを開ける人はいなかった。
もともとヒマそうな店だったけど。とはいえ、何か月かぶりに店が空いたというのに、誰も待っていなかったのか。
保育園のママ友グループに今から流そうか。
初日ということで、店番をやることを伝えたのは二人だけだった。一人は会社の同期のタヌキ。タヌキに伝わるということは、夫のマトメにも伝わるはずだ。優亜がお腹の中にいたときから自分たちの子のように愛情をかけてくれている。優亜の顔を見に来る機会になればと案内した。
もう一人は、横浜の佐藤千佳子さん。娘の文香ちゃんが着ていたワンピースをお下がりでいただいた。ぶかぶかだった脇はだいぶ隙間が詰まってきたが、ピタピタになるまで着続けるだろう。マダムさんの入院を知った日は、中に長袖を着込んで着ていたし、今日も着ている。
文香ちゃんに見せてあげたい。見てもらいたい。佐藤さんが連れて来てくれたらという期待を込めて、《優亜とお店やさんをやります》とお知らせした。
タヌキは、仕事がらみで佐藤さんに会ったことがある。1度目はオンラインの消費者インタビューの立ち会いで、2度目は試食会で。
タヌキと佐藤さんが同じタイミングで来たら面白い。そうなりそうな気もしていた。なのに、どちらも姿を現さない。
スマホがメッセージの着信を知らせた。佐藤さんからだった。

《暑中お見舞い申し上げます。ワンピース、着てくれててうれしいです。今日、お店やさんですね。にぎわいますように。》
にぎわいますようにということは、今日は来れないということだろうか。
浴衣姿の文香ちゃんの写真も送られてきた。今、夏祭りに行っているということだろうか。直美と優亜のお店やさんよりも大切な用が、それぞれにある。
わたしは優亜に何を体験させようとしていたのだろう。

次回8月15日に伊澤直美(78)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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