
第235回 佐藤千佳子(79) 埋蔵主婦を研究する
「トウダイ落ちてきた」
野間さんがそう言ったとき、千佳子の頭に浮かんだのは、祖父母の家の仏間にあった照明器具だった。祖母が「トウダイ」と呼んでいた記憶がある。漢字だと「燈台」と書くのだろうか。
あれが落ちてきたのか。
「燈台落ちてきた」
なんだか唐突だ。
アムステルダムから一時帰国中の野間さんと、千佳子の家のダイニングテーブルで向かい合っている。3月に文香の卒業旅行でアムステルダムを訪ねて以来、会うのは半年ぶりだ。
その野間さんが、いきなり切り出したのが「トウダイ落ちてきた」だった。
トウダイと言えば、東大だ。文香が無謀にも受験して、落とされた大学。でも、東大は落ちて来ない。
いや、「東大に落ちてきた」ならありうる。
落ちてきたということは、受けてきたのか。
野間さんが?
「美容院行ってきた」のノリでサラッと言われたから、主語は野間さんかもしれない。東大を受けて落ちてきた。その報告なのか。だけど、今は9月になったばかり。受験シーズンではない。この時期に入試があったのだろうか。
色々わからない。だから、聞いた。
「トウダイって、あの赤門の?」
「本郷じゃなくて駒場のほうなんだけど」
あの東大だ。
駒場キャンパス。今年2月に文香が二次試験を受けた試験会場。千佳子は門の前まで付き添った。別れ際に握った文香の手は冷たく、震えていた。すでに気持ちが負けていた。笑顔でグータッチしている余裕の表情の親子が近くにいて、あっちは受かりそうだなと思った。ご縁はないかもと頭に浮かんだ考えを千佳子は咄嗟に振り払ったが、その予感は当たってしまった。

「東京大学がアルスノーヴァというアートスクールを来年の4月に始めるの。その一期生になる試験があって。合格したら、日本に帰って大学生やろうと思ってたの。週に2回、駒場に2年間通うことになるから。横浜の家からの通学ルートを調べたりして。あの夫婦に早めに言っといたほうがいいかな、でも、合格が決まってからでいっか。なんて思ってたら、落ちてたの。一次で。そこで落とされるとは思ってなかったから、二次試験の面接に合わせて一時帰国の予定を組んでたの。それでこのタイミングに帰ってきたわけ」
そうだったんですねと千佳子は短く返事をする。
そうだったんですねとしか言えない。
東京大学がアートスクールを始めるなんて知らなかった。
知ったとしても、試験を受けようなんて思わなかった。
受けたとしても、受かるなんて思わない。思えない。
落ちても悔しがらない。悔しがれない。
千佳子が知らなかった東大の試験をアムステルダムで知って、アムステルダムから受験して、日本に来て悔しがっている野間さん。
わたしとは、今いる場所も、目指している場所も全然違うのだとあらためて思う。
「自慢みたいに聞こえるかもしれないけど、私、試験というものに落ちたことがないの。受験も、就職も、英検も」
自慢みたいに聞こえる。
そう思ったら、同時に口にしていた。
「自慢みたいに聞こえます」
だよねと野間さんは笑った。
ですよと千佳子も笑う。
思っていることを言い合える仲で良かったと思う。そうじゃなかったら、同じテーブルで、同じお茶を飲んで、同じお菓子を食べながら、「あなたとわたしは違う」を溜め込んでしまうから。
文香が東大を受験して落ちたことを野間さんは知っている。だけど、「東大」を口にすることにためらいはない。
4月からの進学先が決まらないままアムステルダムを訪ねたとき、ママ友に「何やってたの?」と言われたのがきつかったと打ち明けると、野間さんは言った。
「たかが受験じゃない?」
そう言って千佳子の荷物を軽くしてくれた野間さんが今、悔しがっている。自分が受けたら、「たかが受験」じゃなくなる。

「一次で落とされたってことは、相当競争率が高かったのかな」
試験の出来が悪かったのではなく、競争率が高かったのだと野間さんは考える。優秀で負けず嫌いな人の思考回路だ。
「どんな試験だったんですか」
野間さんを落とした問題に興味が湧いた。
「自分で入試問題を作って、自分で解答するの。それが試験」
それならば、簡単な試験問題を作れば全問正解できるのではと思ったが、そういうことではなかった。
「東京大学のアルスノーヴァに入って、どんなことを学びたいか。まず、それを書くの」
推薦入試の志望理由書を千佳子は想像する。
「カリキュラムを読み込んで、自分だったら、この科目をこんな風に活かしますっていう計画を立てるのね。アートスクールと言っても美術を学ぶんじゃなくて、アルスって英語のアートの語源になったラテン語で、本来は技とか技術って意味。ジャンルも横断しているし、科目の名前も概念みたいな感じ。どう使いこなすか、無限の可能性がある。その学習計画を踏まえた入試問題を作って、自分で解く。出題者であり解答者になる。選択問題ゼロ、百パーセント自由記述。文字数制限もないし、提出書類のフォーマットも自由。自由をどう使いこなすかって一番難しいよね。よく出来た問題だったと思う。選ぶほうも大変だよね。正解がないから」
へーえ、そうなんですねと千佳子は応じる。
へーえ、そうなんですねとしか言えない。
「あの研究テーマは、誰ともかぶってない自信あったんだけど」
「何の研究をしようと思ってたんですか」
そう聞いてから、「わたしが聞いて、理解できるかどうか、わからないですけど」とつけ加えた。
「わかるに決まってる。佐藤さんのことだもの」
わたしのこと?
口に近づけたコーヒーカップが途中で止まった。
「佐藤さんのことっていうか、埋蔵主婦のこと」

埋蔵主婦。
その言葉と一緒に思い出されるのは、野間さんとスーパーマルフルで働いていた日々だ。野菜売り場のパセリの根元にリボンを巻き、花束みたいにしたら、少しだけ売り上げが伸びた。クリスマス時期には赤と緑のリボンを巻いて、クリスマスツリーに見立てた。
野間さんの話だと思っていたら、自分の話になっていた。いつの間にか主役が変わる。野間さんの話には、そういうところがある。
「埋蔵主婦はこの国の損失って話、佐藤さんとしたよね?」
「しましたね」と千佳子は思い出す。
きっかけは、中学生だった文香に「男女っていつ逆転するの?」と聞かれたことだった。文香の中学校では、女子が成績の上位を占めていた。なのに、社会で活躍している人の男女比は逆になっているのは、なぜなのか。
千佳子はうまく答えられず、答えを求めて、野間さんにぶつけた。
「学歴や職歴は履歴書に書けるけど、家事や育児やPTA活動は対価も評価も受け取れない。キャリアを離れた間に頑張ったことがなかったことにされて、どんどん差が広がって、人材が埋もれていっちゃう。それって、この国の損失だと思うんだよね」
出産や育児でキャリアを離れても、立ち止まっているわけではなく、その間に築かれているもの、磨かれているものはある。けれど、再就職の面接に臨むと、何もして来なかったんですねと言われる。そのやるせなさを野間さんは言語化してくれた。
千佳子には降りたというほどのキャリアはなかったし、結婚を機に故郷の岩手を離れたのも、自分の意志だった。そもそも、東京に出たくて結婚したのだった。出てきた先は東京ではなく横浜だったが、千佳子には大した違いはなかった。
だから、埋もれてしまったという自覚はなかった。
むしろ、掘り起こされてから気づいたのだ。埋もれていたのだと。
掘り起こしてくれたのは野間さんだった。

次回9月26日に佐藤千佳子(80)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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