
第225回 伊澤直美(75)遠くの母より近くの……
マダムさんはお店にいるときに脳梗塞で倒れたという。
「珍しくお客さんがいて、その方が救急車を呼んでくれて、軽く済んだんです」
妹さんはそう言ったが、直美が想像したよりも重症だった。数日間は意識が戻らず、最初は言葉が出てこなかった。リハビリ病院に移ってから少しずつ回復し、会話もできるようになっているが、左半身に麻痺が残り、まだ歩けないという。
「そんな大変なときに小さい子どもを連れて会いに行って、ご迷惑になりませんか」と直美が尋ねると、
「話し相手がいなくて退屈しているんです。私はもう話すことなくなっちゃって」と妹さんは言った。
お見舞いの日、マダムさんは作業療法士さんに車椅子を押され、直美と優亜が待つ談話室に現れた。
ドレープが優雅にたゆたうワンピースではなく皺の寄ったパジャマ姿のせいか、マダムさんはとても病人らしく見えた。
おなじみの紫のフレームの眼鏡もかけていないし、いつもはふんわり立ち上がっている髪はつぶれている。お化粧もしていないが、口紅だけは塗っている。
マーケティング調査でオンラインインタビューしたときの佐藤千佳子の第一印象を思い出した。
化粧っ気のない顔で唇だけが真っ赤に主張していた。
パセリを花束みたいに空き瓶に活けたら3週間持ったとか、その後は生ハーブブーケを3割引で買い、ハーブ料理のレパートリーが広がったとか、佐藤千佳子が真っ赤な唇を開いたり閉じたりして実に楽しそうに話すのを、行ったことのない国の土産話のように直美は聞いていた。
夫が早く行きたがっている国。いつか行くことになるとしても今じゃないと思っている国。
あれから5年経ち、直美も子育ての国の住人になった。
子どもができると世界が狭くなると思っていたが、その逆だった。優亜がいなかったら言葉を交わすことのなかった人たちがたくさんいる。マダムさんもその一人だ。

お見舞いの日、急に老け込んだようなマダムさんを直美は直視できなかったが、優亜は「マダムさーん」といつものように元気よく挨拶した。
マダムさんの顔がパッと明るくなり、「ゆあちゃん」と微笑んだ。「ゆあちゃん」が「うあちゃん」に聞こえたが、すぐに名前が出てきたことに安心した。優亜との記憶には傷がついていないのだと。
にこやかな笑顔は、いつものマダムさんだった。片側が麻痺していると聞いていたが、頬がひきつるような感じはなかった。
「マダムさんのおみせにいったら、ことりさんがおるすばんしてたよ」
「そう」とマダムさんが目を細める。
ショーウインドウ越しに目を凝らしたあの日、直美は店内の時間が止まっているように見えて胸騒ぎがしていたが、優亜にはオーナメントの小鳥たちが留守を守っているように見えていたのだ。
以前イースターの時期に飾ってあった色とりどりの卵がその小鳥たちになったのだと優亜は当然のように言い、「きょうは、ことりほいくえんのおたのしみかい」と即興でお話を作った。

「まちにまったおたのしみかいがはじまります。みずたまのいしょう、とってもかわいいですね。かわいくて、かわいくて、ほっとかないですね」
「ダンスをまちがえてもだいじょうぶですよ。ダンスをわすれたら、すきなようにからだをうごかして、いいなあ、たのしいなあって、にこにこしていましょう。にこにこするのもダンスですよ」
ちょうど店を見に来たマダムさんの妹さんがその話を聞いていて、拍手してくれたのだった。
「お店のことりさん、何してたんだっけ」と直美が続きを促すと、
「おるすばんしてたの」と優亜。
「何してお留守番してたの?」
「あそんでたんだよ」
「何して遊んでたの?」
「しりとり」
なかなかお楽しみ会の話に辿り着けない。
あのお話は、あのときだけのもので、そんなお話を作ったことも優亜は忘れてしまっているのだろうか。
優亜の口から伝えないとかわいさも面白さも半減してしまうし、マダムさんは「お留守番」で十分喜んでくれている様子だし、もったいないけれど胸にしまっておくことにした。

「マダムさんと、なにしてあそぶ?」
傘を弾く雨の音に混じって優亜の声がする。
明日、またマダムさんの病院にお見舞いに行くことになっている。
「なにしてあそぶ?」と応じる声は、優亜より半年早く生まれた従姉の結衣だ。
長靴を履いたふたりは、直美とイザオの前を歩いている。
イザオの姉の亜子姉さんが大阪でのグループ展に出展することになり、初日を迎えるこの週末、泊まりがけで現地へ行っている。その間、結衣を預かっている。
6年生になった幸太は一人で留守番できるけど、結衣の面倒まで見てもらうのは心配ということだった。幸太も一緒にと直美は言ったのだが、「一人を満喫したいんだって」ということだった。
家に一人ということは、ダンナさんは不在らしい。亜子姉さんからも幸太からも結衣からも話題に上らないダンナさん。今は同居していないのかもしれない。幸太の「幸」はダンナさんの名前から取ったらしいが、幸太が幼稚園を何度も変わって大変だったとき、亜子姉さんは一人で対応に追われていた。
「結衣も一緒にお見舞い行くんだ?」とイザオが聞く。
「もちろん。結衣もマダムさんに会ってるし」
亜子姉さんと一緒に優亜と結衣を連れて散歩に出かけたとき、マダムさんのお店を通りかかり、いつものように温かく迎えてもらったことがあった。その話をイザオにした気がするが、していなかったかもしれない。
その後、天使の羽をつけた優亜と結衣の写真をマダムさんあてに送ったつもりが、間違えてひまわりバッグのmakimakiさんのショップあてに送ってしまったことは話していない。

「マダムさんって、どんな人?」とイザオに聞かれ、
「うちの母とは真逆な人」と答える。
「てことは、伊澤の母とも違うってことか」
「うちの母と伊澤母、ゾーンでいうと、近いとこにいるよね」
会いに行くときは気が重いし、会った後はさらに重くなる母。
直美の母は以前に比べると別人のようにやわらかくなった。一人暮らしの母を定期的に訪ねてくれている彩子さんという女性によると、頭を打ったことがきっかけで、母の記憶はところどころ日陰になり、忘れたいことが都合よく消えているらしい。
母の中ではなかったことになっても、直美は顔を見ると、母に投げつけられた心ない言葉が蘇ってしまう。自分の心を守るために会わないようにしていたが、イザオは優亜を連れて時々様子を見に行ってくれていた。
そのイザオが「しばらくお義母さんを休むわ」と言い出したのは3月のことだ。
「義理の息子」を、ではなく「お義母さん」を休む。
お義母さんの相手を。
お義母さんの諸々を。
「お義母さん」が気の進まない労働みたいだ。
「何かあった?」と聞くと、
「言いたくない」と言われた。
休みたくなった理由は、まだ聞けていない。
わたしはずっと、あの母を休みたかった。

母の日には、会いに行かず、電話もせず、アレンジメントの花だけを贈った。
母からは何のリアクションもなかったが、1週間ほどして、メッセージがあった。
《首折れの花が届きました。嫌がらせでスカ》とあった。
不在票に気づかなかったのか、受け取るまでの間に水枯れを起こしてしまい、茎が折れてしまったらしい。
誤変換なのか、「ですか」が「でスカ」になっていて、それが母の不機嫌な声で脳内再生された。
返信する気にもなれなくて、そのままにしている。ごめんなさいのスタンプだけ送ろうかと思ったが、それもやめた。「スカ」でやり取りは終わっている。
イザオが行かなくなると、母の様子がわからなくなってしまったが、何かあれば彩子さんが連絡してくれるだろう。
「マダムさんみたいにかわいいおばあちゃんだったら、もっと孫の顔を見られたのに」
母に届かない想いが、雨音に吸い込まれていく。

次回6月13日に伊澤直美(76)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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