
第236回 佐藤千佳子(80) 埋蔵人生を脱出中
「読みものとしては面白いと思うんだよね。登場人物、文香がよく知ってる人だし」
文香が読んでいるのは、野間さんが置いていったコピーだ。東大がこの秋開講するアートスクールの一次選考の提出書類。
1)カリキュラムを読み解き、これまでやってきたこと、これからやりたいことに照らし合わせて、このカリキュラムをどう使うかを構想する。
2)1を踏まえ、このようなカリキュラムを持つ学校が課すべきだと考える選考課題を作成する。
3)2を踏まえ、その課題に対する解答を制作する。
そんな内容だ。受験者が自分で考えた問題を自分で解く。
「出題者の気持ちになって問題を解くの、鉄則だからね」と文香は受験生2年目らしいことを言う。
野間さんが考えた選考課題は「ある埋蔵主婦が発掘される経緯と、それを実現させる原因について書きなさい」というものだった。その課題に対して制作した解答は、野間さんがスーパーマルフルで体験した実話だ。
「ママ、ほぼ主役だし」
からかうように文香が言う。
「パセリの花束」のエピソードに始まり、マルフルのハーブを扱っている取引先であり常連客でもあるハーブのマイさんを巻き込み、ハーブマルシェ企画が持ち上がる展開。現実と異なるのは、マルシェが実現しているところだ。
野間さんの家に一時期居候し、野間さんに誘われてパートに加わった義母の美枝子も登場する。冬の焼きいもを売り場ソングでヒットさせ、アイスクリームとのセット売りで夏の焼きいもまでヒットさせたエピソードが出てくる。
文香にしてみれば、母と祖母の活躍が描かれている。

「いちばん得してる読者は私かも」
文香はそう言ってから続けた。
「でも、埋蔵主婦の紹介で終わっちゃってる。研究意欲をアピールする試験の解答としては、物足りないかも」
「確かに。それが落とされた理由かも」
わたしも遠慮なく文香の前で東大が落ちた話をしちゃってると千佳子は思うが、文香は気にしていない様子だ。
「埋蔵主婦を発掘するにはどんなビジネスモデルが考えられるかとか、埋蔵主婦が発掘されたらこの国がどう変わるかとか、もう一歩踏み込んだ答えが必要だったかも。それを引き出す課題が必要だったってことだね」
文香はそう言って、「人の書いたものは客観的に見られるよね」と苦笑した。
文香は今、現代文の記述問題や小論文と格闘している。英語に比べて得点できていない分野らしい。読めば読むほど、書けば書くほど力がつくし、出会ったことのない文章や書き手に次々と出会えるのが楽しいという。
「二次試験の面接に進めたら、埋蔵主婦について刺激的な議論できる。その先に進めたら、アルスノーヴァに集まってくる人たちと埋蔵主婦のことを掘り下げられる。その中に当然自分が含まれてると思ってた。まさか一次で落とされるって思ってなかった」
野間さんは、そう言って悔しがっていたが、野間さんの解答は、文香と埋蔵主婦を語るきっかけとして活かされた。

「いちばん面白いのは、ノマリーアントワネットだよね」
文香が言うのは、野間さんの受験名だ。芸名やペンネームを名乗って良く、本名の「野間喜和子」ではなく、「ノマリー・アントワネット」という名前でエントリーしたらしい。
これまでの学歴や職歴は不問で、記入欄すらなかったらしい。
「過去の経歴を一切不問にしたら、私って何者でもなかった」と野間さんは悔しがりつつ、「肩書きのない埋蔵主婦も互角に戦える試験だった」と評価していた。
ニューヨークに住んでいたことや現在アムステルダムに住んでいることは、研究計画の中で触れたが、「これまで何をしてきたか」よりも「これから何をしたいか」が問われていた。
千佳子という埋蔵主婦が芽を出した理由については、「パセリに花束を見出す感性と扉の向こうへの好奇心」と野間さんの解答は記している。
野間さんはこんな風に見てくれているのか。
自分のことを客観的に見て分析されたものを読むのは、うれしく、こそばゆい。
この感じに既視感がある。
学校で学期末に渡される通知簿。成績の数字の他に、担任の先生が気づいたこと、気になることが書かれていた。あのコメントを読むのが楽しみだった。ちゃんと見てくれているんだなとうれしくなったり、わかってくれてないんだなと落ち込んだり、たった数行に一喜一憂した。

そんなことを思い返しつつ文香に話すと、
「今でも覚えている言葉ある?」
と聞かれた。
「なんだろ。すぐには思い出せない」
そう言ったとき、記憶の底から浮かび上がってきた言葉があった。
「引っ込み思案ですが、いいものを持っています」
確か中学校一年生の担任の先生の言葉だ。
その言葉を文香に伝えると、「それ、まさに埋蔵主婦だね」と言われた。
「当時中学生だけど」と言うと、
「そっか。ママ、主婦になる前から埋蔵してたんだ」と納得される。
埋蔵主婦とは、「結婚や出産で活躍の場を閉ざされ、能力を埋もれさせた女性のこと」だとすると、千佳子は埋蔵主婦の定義から外れる。
「埋蔵主婦じゃなくて埋蔵人?」と千佳子。
「埋蔵金みたい」と文香が笑う。
「埋蔵人生のほうが語呂がいいかな」
「じゃあ、ママは脱・埋蔵人生したんだね」
「脱出中かな」

野間さんが訪ねてきたとき、以前野間さんからフライングでもたらされたマルフルの店長抜擢の話も出た。
「佐藤さんがマルフルの店長になったら、見える景色もまた変わると思うし、研究対象として話を聞かせてもらおうと思ってたんだけど」
と野間さんが言った。
「その話なんですけど、野間さんが言っていた店長抜擢の話、わたし個人にってことじゃなくて、パートが店長を目指せる制度が始まるってことみたいです」
と千佳子が言うと、
「実は、マルフルの社外アドバイザーを解任されて、あの後、情報が取れなくなってたの。中途半端なことを教えちゃってごめん」
と野間さんは謝った。
出来事の順番は確かめていないが、ダンナさんのニューヨーク駐在について行くまで働いていた外資系広告代理店のアムステルダム支社での仕事も契約更新ができず、恋人とも別れたらしい。
アムステルダムに残る理由がなくなり、日本に帰る理由を探していたところに東大がアートスクールを開講することを知った。
「埋蔵主婦ありきじゃなくて、東大ありきだった。そんなんで合格できるかもなんて甘かったよね」
野間さんは素直に負けを認めた。
「カッコつけるために東大使っちゃダメだよね」と野間さんが言い、
「埋蔵主婦使うのもダメです」と千佳子は冗談っぽく返し、ふふふと笑いあった。
その話は、文香にはしていない。

「ママが受験するときの名前は十文字パセリだね」
文香の言葉で千佳子は現実に引き戻される。
十文字パセリ。
「その名前懐かしい」
マルフルのお客さんとして知り合い、親しくなった白杖のカズサさんが千佳子の書いた作品を朗読サークルの発表会で読んでくれることになったとき、作者名が必要になってつけたペンネーム。十文字は旧姓だ。
義母が家を飛び出すきっかけになった祖父母の喧嘩を和やかに決着させるため、千佳子が文香と夫のアイデアと協力を得て書き上げた小さな物語「日曜日と月曜日がケンカした」。
朗読会で一度読まれただけの作品だ。パンケーキ屋のkirikabuの人が布絵本にしてくれ、店に置いてもらっているが、作家と名乗るのはおこがましい。
「懐かしがってないで、次回作まだ?」
文香が笑って催促する。
「横浜ばあばがまた家出したらね」
千佳子は笑って応じる。
「じゃあ、埋蔵主婦のこと書いたら?」
そう言った文香の顔は、ふざけていなかった。そして、もう一度言った。
「読みものとしては、面白いと思うんだよね」

次回10月10日に伊澤直美(79)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
みなさまからの「フォロー」「スキ」お待ちしています!
