
第234回 多賀麻希(78) 時間の足跡
ハーブのマイさんが生垣越しに届けてくれた枝豆には物語がついてきた。舞台は目黒。近所ではないが、登場人物は麻希が親しみを抱いている親子だった。
伊澤直美と一人娘の優亜。
直美の夫の姉の亜子とその娘の結衣とともに、この家を訪ねて来たこともある。
それからしばらく経って、直美から優亜と結衣の写真が送られてきた。背中に天使の羽をつけた幼いふたりの後ろ姿だった。
親バカ写真の垂れ流しに鼻白んだが、送り先を間違えて届いたものだとわかった。麻希が胆のうの摘出手術を受けることを決めたタイミングで、縁のようなものを感じた。天使の写真をスマホの待ち受け画面にして、お守りにした。
直美が天使の写真を送ろうとしていたのは、直美親子の散歩コースにある洋品店のマダムだった。
そのマダムが現在リハビリ入院中で店を留守にしているという話は、マイさんが枝豆とともに届けた。
洋品店のある一画が再開発予定地となっており、年内に店を明け渡さなくてはならず、伊澤直美と伊澤亜子が週に一度ずつ、店番をしているらしい。
そこまではわかる。

数週間前にマイさんがその店を訪ね、持って行った枝豆で客を呼び込んだらしい。
それもわかる。
「一緒に枝豆をむいて、お土産に持って帰ってもらいました。なぜ枝豆?と思いつつも店に入って来てくれた人は、皆さん楽しんでくれて、お店もにぎわったんですが、お買い上げはゼロでした。あのお店と枝豆が合ってなかったんですね」
情景が目に浮かぶ。
「これが、その枝豆です」
枝豆を受け取ったところで、言われた。
「マキマキさん、店番やってみませんか?」
そう来るとは思わなかった。
仕事を探していた麻希がスーパーマルフルで早朝の品出しの仕事があると聞いて飛びつきかけたとき、それを止めたのがマイさんだった。ドレスを作るという麻希が本来やりたいことでお金を稼ぐべきだと言い、自分が着るドレスを注文した。
ドレスのデザインが採用され、制作に入っているところで、マイさんは麻希にとってはお客さんだ。
パートに時間を割くことは止めるのに、縁もゆかりもない洋品店の店番を持ちかけるマイさん。仕事をくれた恩義があるから断りづらいのだが、そんな理由で引き受けるのもなんだかねえと思ってしまう。
店は目黒駅から徒歩15分の距離にあるらしい。うちからだと片道1時間かかる。往復で2時間。マルフルなら歩いて行けるのに。
受け取った枝豆が重くなった。

その場では返事をせず、「どう思う?」とモリゾウに相談した。
「マルフルの品出しでは得られない何かがあるんだろうね」と言われた。
「これから畳もうっていうお店らしいけど?」
「終わりに向かっている店から始まる何かがあるのかもしれない」
モリゾウが芝居がかった口調でそう言い、「何かねえ」と麻希は応じた。
「終わりから始まる」はこの頃の麻希とモリゾウの合言葉のようになっている。
人生の終着点である棺から友情が始まる話をモリゾウが思いつき、ふたを開けた棺からクリームを待つシュー皮を麻希が連想し、空っぽのポケットにハーブを挿して完成させるドレスのデザインをひらめいた。
年内に明け渡す予定の洋品店と出会って生まれるものがあるかもしれない。
「豆ご飯食べちゃったし」
結論のようにモリゾウが言い、「何それ?」と麻希は笑ったが、「豆ご飯食べちゃったし」と復唱すると、気持ちが軽くなった。
「仕事をもらったから」ではなく、「もらった枝豆で炊いた豆ご飯を食べちゃったから」。それを引き受ける理由にしようと思った。
迎えた店番初日。
麻希はショーウィンドウ越しに見える店内の椅子に腰を下ろし、刺繍針を動かしている。
道行く人の目には留まるけれど、目は合わない位置。ドアが開く音がしたら顔を上げるつもりだ。
こちら側に「CLOSED」を向けている札は、店の前を通る人たちには「OPEN」を向けているはずなのだが、ドアは開かない。
刺繍のいいところは、針を動かした跡が残ることだ。針に運ばれて糸が進んだ距離の分だけ、布に色と模様が宿る。
刺繍をするたびに同じことを考えている。
刺繍しているのは天使だ。赤ちゃんのような、ぷくぷくした体つきの、天使がふたり。
店の中に飾られている置物と、優亜と結衣の天使の後ろ姿が混ざり合って降りてきたデザイン。

針を動かしていると、頭の中にたゆたう思考や記憶の断片が浮かび上がる。スローペースの走馬灯みたいに。
マイさんと伊澤直美は、いつからつながっていたのだろうか。
知り合いだったから枝豆を持って店を訪ねたのか、枝豆を持ってたまたま通りかかって入った店で知り合ったのか。
麻希と直美の縁はひまわりバッグに遡る。
麻希がオンラインショップmakimakimorizoで販売した一点物。6万円という強気の値段をつけたら、すぐに買い手がついた。
それが伊澤直美だった。
購入後、取引メッセージを通して彼女から問い合わせがあった。
《こちらの記事に出ているバッグは、先日購入させていただいたものでしょうか》
ひまわりバッグを持ったインフルエンサーのケイティの姿がネットニュースで拡散していた。
わたしの作ったものがオリジナルで、あちらは偽物です。デザインを盗まれたんです。信じてくださいと言葉を重ねるほど言い訳がましくなる気がして、一文だけを返した。
《ご購入いただいたバッグは一点もので、同じものはお作りしていません》
返信はなかったが、バッグは返品されなかった。
ケイティ信者の数の力で、真似をしたのは麻希のほうだと一方的に決めつけられた。
ケイティ本人は、「オリジナルはひまわり」だと開き直った。
ケイティがデザインを盗んだという事実以上に、麻希のものなら盗んでも構わないと舐められていることに打ちのめされた。
服飾専門学校時代、当然のように課題をやらされていた。卒業しても、その関係は断ち切られていなかった。
伊澤直美はひまわりバッグの購入者だったが、所有者は別にいた。彼女の夫の姉、伊澤亜子。直美は代理で購入し、受け取っていた。
昨年、直美と亜子の母娘ふた組が訪ねてきたのは、ひまわりバッグを返すためだった。返品ではなく里帰り。麻希に持っていて欲しいと言われた。
その少し前、ひまわりバッグは再び世間をざわつかせた。直美の手元にあったバッグを同僚の田沼深雪が友人の結婚披露パーティーに持って行き、美しすぎる新婦の友人として、バッグを手にした彼女の姿が拡散されたのだった。
古傷が抉られることはなく、かさぶたの端がめくれた程度だったが、そっとして置いて欲しかったという気持ちと忘れられてなかったんだという気持ちがない混ぜになった。
田沼深雪は麻希にウェディングドレスの直しを注文した人でもあった。

ケイティにひまわりバッグのデザインを盗まれて以来、作ることが苦しくなっていた麻希に針を握らせ、運ばせるきっかけをくれた仕事。
それが3年前の春だった。
それから針は動きかけては止まった。今また動き出している。子どもを持つタイムリミットを考えて、子ども服を見ると気持ちが波立った頃もあったが、今、天使を刺繍する心は凪いでいる。
刺繍の跡は時間の足跡だとも思う。
針を動かしている現実の時間。
思い起こされる過去と思い巡らされる未来。
針を動かす麻希に宿っている時間。人生。

次回9月19日に佐藤千佳子(79)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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